二月十四日、桐雨刀也の登校は珍しく遅かった。
 普段ならば始業ベルが鳴る十分前には席について背筋を伸ばしているのだが、その日は始業五分前に扉を開けるという始末。
 その理由は明白。この国独自の発展を遂げたバレンタインデーのせいである。
 覚悟を決めてU−Aの扉を開けると、そこにはカオスが広がっていた。

「きゃあ! 刀也さまーっ!」
「居合番長! 受け取ってください!」
「もぉー、遅くないですかぁ? 待ってたんですよ!」

 女生徒の黄色い悲鳴が一斉に刀也に浴びせかけられる。彼女たちが持っているのは色とりどりにラッピングされたチョコレートだ。教室の女生徒は、ほぼ全員が彼にチョコレートを渡すために待っていたらしい。中には他のクラスからわざわざやってきた者もいるようだ。
 刀也の顔に弱々しい笑みが浮かぶ。毎年恒例のことではあるが、甘い匂いを纏って包囲する女子たちは渡すまで彼を解放しないに違いない。
 ここに居るのは直接渡そうと決めた女子だけだろう。ちら、と視線を移せば机の上にはチョコレートが山と積まれている。ブランドのロゴが入った包装のものもあれば、明らかに手作りとわかるものもある。
 この状態を端的にあらわすのなら、
「モテモテだねー、居合番長」
 と、机に肘をついて卑怯番長が呟く。
「これだけ圧倒的な違いを見せつけられると、妬む気にもなれないね。そう思わない? さっきから一心不乱に念仏唱えてる念仏番長?」
「我は三次元に興味なし」
「……血の涙流しながらそんなこと言ったって、説得力無いと思うよ」
 呆れた声を出すが、念仏はそれに応える気はないらしい。煩悩退散を唱え続ける念仏に肩をすくめ、卑怯はだらしなく机につっぷして顎をくっつける。

 呑気な二人のやり取りを横目で見ながら、刀也は女生徒たちの対応に追われていた。
 ひとりひとりが「これからも番長がんばってください」だの「一生懸命焼いたチョコクッキーなんです!」だの「刀也さま、大好きです!」だのともじもじしながら手渡すのだから、時間がかかって仕方がない。ずらりと並んだ女生徒の列は、男子生徒の冷たい視線を集めるし、スカート丈のせいで目のやり場にも困る。もっとぎりぎりの時間に来るべきだったと、心中で後悔する。
 毎年恒例のこととはいえ、こうやって女生徒と接するのにはまったく慣れない。
 相手は好意からしているのだし、にべなく拒絶するのも大人げないだろう。だが、それが嬉しいかと問われば、否としか答えられない。同性からは嫉妬を買ったり、からかわれたりもする。刀也にとって二月十四日は、甘い香り満たされる街とは違って、いつだって苦いものだった。

「居合番長さぁ。君、真面目すぎ」
 椅子の引く音がして、視線をやってみれば卑怯番長が立ちあがっていた。見るに見かねて、と顔に書いある。
「全員の話聞いてたら、日が暮れちゃうよ? ただでさえもうすぐホームルームが始まるんだから、他のクラスの子たちは授業に遅れちゃうよ? さっさともらって帰してあげなよ」
「それができれば、苦労はしていない……!」
「だろうね」
 刀也の答えなど予想済みだとでも言うように卑怯番長はくすくす笑う。人の苦労も知らないで、と言いかけると、彼は女生徒たちのほうへ向かった。
「君たちも、教師に怒られるのは嫌だろ? とりあえず、チョコ渡したいだけの人はこっちに持ってきてよ。僕が責任もって渡しておいてあげるから。なんか言いたいことがある子は休み時間にまたおいで」
 女生徒たちの間にどよめきが走る。
「卑怯番長、勝手なことをし」
「あと、一分」
 刀也の抗議をさえぎって、黒い手袋が壁時計を指す。始業までのカウントダウンを細い秒針が粛々と行っていた。
 時刻の指摘は言葉よりも強い説得力を持っていたらしい。ひそひそと話しあって、幾人かの女生徒が列を離れていく。
「ああ勿論、居合番長なんかより僕にチョコレートを渡したい人も大歓迎だよ」
 ウィンクを飛ばして、さらりと軽薄な台詞を吐くのは、卑怯番長らしいと言うべきか。女生徒たちは三々五々と散っていった。交通整備でもするかのように、卑怯は女生徒たちの列をしわける。彼女たちから解放され、刀也はようやく自席につくことができた。
「おつかれさまです、居合番長さん」
 ひたすらに念仏を唱え続ける隣の念仏番長を通り越して、剛力番長がにっこりとほほ笑む。
「すみません、醜態を見せてしまったかもしれませんね」
「そんなことありませんわ。あとで私もお渡してもかまいませんでしょうか?」
「チョコレートですか?」
「ええ! 陽菜子さんと友チョコを交換すると約束していたのですが、友といえば私たち番長もそうでしょう?」
 私、友チョコってはじめて贈るんです、と言う剛力のほほ笑みはさらに深くなる。
「念仏番長さんのぶんも用意してありますけど……迷惑でしょうか?」
「いや、そんなことはない。我はもらえるものは快くもらう主義だ」
 小首を傾げた剛力に、カッと目を見開いて念仏が応える。首元の数珠が光ったような気さえしたが、きっと気のせいだろう。
「ありがたく受けとろう」
「お返しを期待してますわ」
 にこにこ顔の彼女につられて、刀也の顔にもようやく本当の笑顔が浮かぶ。学校に来てからというもの、ずっと顔をこわばらせていたようだ。表情筋がひきつっていた。
「君たちなに話してるの?」
 女生徒たちの交通整備を終えた卑怯番長が首をつっこんでくる。
 剛力番長の説明をふーんと聞き流し、卑怯は小さな箱を一つさしだした。
「はいこれ、チョコレート。居合番長に」
 平たい箱は銀のストライプを薄く入れた桃色の包装紙で飾られていた。右上にはSt.Valentine's Dayと箔の入ったシール。ごくごく普通のチョコレートの箱だろう。
 先ほど卑怯番長が言っていたように、直接チョコを渡さなくても良いと思った女生徒のものだろう。ひとつだけというのが気になるが、直接でないのならわざわざ刀也の登校を待たずとも、机の上に置けばいいだけの話だ。少ないのもうなずける。
「すまない。助かった」
「別に構わないけどね。でも、あそこにいた子たちはみんな、また出直すってさ。お昼休みは大変になるね」
 菓子箱を受けとると、卑怯は踵を返して自らの席へと戻った。いつもならここで、二、三言からかいの言葉を残すようなものだが、珍しく何も言わない。こちらからなにか言うべきかと思ったが、卑怯が椅子に座った瞬間、始業のベルが鳴り、教師が扉を開けた。


 ――――――――――――――――


 卑怯番長の予言通り、昼休みは大変なことになった。
 いや、昼だけではない。U−Aの休み時間は、居合番長を訪ねる女子でごったがえしていた。からかい半分でチョコレートを持ってくる者もいれば、本気の告白をしに来るものもいる。スカート丈を理由にして断ったが、そもそもほとんど面識もないような女子と付き合うことなどできない。
 断るのも心が痛むがそれよりも、そのたび卑怯番長にからかわれるのも神経に障った。人の色恋沙汰にいちいち口を出してきてなにが面白いというのか。
 ただ、物好きな女子もいるようで、U−Aを訪ねる生徒の中には卑怯番長を訪ねる者もいた。
「金剛番長ならわかるが、何故卑怯番長などに……」
 と素直な気持ちを口にすると、卑怯番長ではなく、その女生徒に怒られてしまった。曰く、ミステリアスなところと腹筋がよいのだとか。
 ……自分には理解しかねる、と刀也は思う。

 陽菜子嬢がチョコプリンを金剛にあげたり、剛力からのチョコレートを念仏が涙を流して受けとったり、そのチョコを見てこれ一個うん千円のじゃ……と卑怯がひきつった顔をしたり、一日中続いたチョコレートラッシュをくぐりぬけ、家についたのはとっぷりと日が暮れた後だった。
 持ち帰ったチョコレートは、冗談や洒落でなくごっそりと山のようになっていた。袋からとりだして、ひとつひとつ見分をする。食べるのではなく、差出人を確認するためだ。名前を知らない女生徒にはもらったときに名を聞いていたし、いちおうメモもしてある。他クラスの生徒も含む何十人もの名前と顔を覚えてはいられないし、一ヶ月後に返事をしなければ礼を逸する。
 もらった手紙や添えられたメッセージを読みながら、刀也は女子の名前を書きつけていった。U−Aからだけでなく、下級生・上級生から贈られたチョコレートも散見される。果たして、三月十四日に回りきれるだろうか。
 さらさらと動いていた手が、一つの箱を手にした時ふっと止まった。
 銀ストライプの桃色の箱。朝方、卑怯番長から手渡されたものだ。箱の外側に差出人の名前はない。
 まずい、と思う。卑怯番長にその女子の名前を聞いてもわからないかもしれない。箱の中になにか入っていないかと、包み紙を開ける。はらり、と名刺サイズのカードが落ちた。


きみのことを、そばでみてる

A .

 筆跡を変えようとしているのか、やけにたどたどしく見える字だった。
 すべてひらがなで書いてあるのもそれに拍車をかけているのだろう。「A」は差出人のイニシャルか。
 拾いあげて、手のひらの上にのせてみる。飾り気のない紙に、シンプルすぎるメッセージ。握りつぶせそうな小さな紙にのせたのは、彼の本心だろうか。本人は余計なことばかり言うというのに。
 じわっと胸に温かいものがにじむ。
 一日中、彼はまるで刀也と友達以外の何物でもないようにふるまっていた。
 二人の間に甘いものなど一切ないかのように。
 バレンタインは「女性が」男性にチョコレートを贈る日だ。
 自分が彼に送るなんて到底できないし、彼もこれまで一言も触れなかった。
 だから、二月十四日は、彼と自分の間には何があるわけでもなく、過ぎ去ってしまうと思っていた。
「『正々堂々、卑怯に』か……」
 くすり、と刀也は笑う。
 卑怯番長は誰からのチョコレートとは言わなかった。女生徒からのチョコレートだとも。
 まさかクラスメートの前で、白昼堂々と渡すとは思わなかった。
 箱を開けてみると、しきられた部屋の中にココアパウダーをふりかけられたチョコが丸まっている。ひとつつまんでみると、口の中でほろりと崩れ、苦味と甘味が広がった。秘めごとに味をつけるとするのなら、このようなものなのかもしれない。二人の関係と同じで、甘いだけではなく、少しだけ、苦い。
 差出人の書きだしは中断して、携帯電話を手に取った。このチョコレートの差出人の電話番号を呼び出す。
 彼は電話口でどんな答えを返すだろう。
 気づくのが早かったねと笑うだろうか。それとも遅いと拗ねるだろうか。
 いずれにせよ、伝えなくてはいけない。今日もらったどのチョコレートよりも嬉しかったということを。
 カチャ、とダイアルが繋がる音がした。息を吸いこむ。

  「もしもし、優?」










2010.02.14up
卑怯さんの決めゼリフを初めて使うのがまさか
バレンタインネタになるとは思いませんでした。