居合番長が通う雷鳴高校から、最寄駅までの距離は意外と長い。
 放課後を告げるチャイムとともに、駅までの道は学生服で埋めつくされる。静かに道を歩きたいのなら、少し時間をずらしたほうが賢明だろう。実際、数は多くないが、電車の座席を確保したいと願う生徒はそうしている。
 居合もまた、時間をずらす生徒のうちの一人だった。
 といっても、彼が下校時間をずらすのは他生徒たちのように軟弱な理由からではない。
 23区計画から離脱したとはいえ、彼は未だ「番長」を名のっている。そして金剛番長の刃となると決めた以上、いつ他の地区の番長に襲われても文句は言えない。人でごった返す帰り道で番長たちの戦いが始まれば、他の生徒たちは必ずまきぞえをくうだろう。それを防ぐための彼なりの配慮だった。


 ――はじめのうちは、そのはずだった。


「今日も遅いね、居合番長」
 駅までの道を夕暮れに照らされながら歩いていると、背後から軽薄な声がかかった。
「卑怯番長か……」
 ふりかえる前からわかってはいたのだが、あえて声の主の號を口にする。
 腹をむきだしにした短ランに、鼻のとがったマスク。どう考えても不審者にしか見えない格好の男は自分と同じ「番長」だ。日頃の不遜な態度からすると、彼が人の迷惑を考えているとはこれっぽっちも思えないのだが、最近やけに校舎を後にするタイミングが重なることが多い。
 校内に残って何をやっているのかと思うのだが、ホームルームが終ると彼はいつの間にか姿を消している。どうせ罠か何かでもしかけているのだろうと結論に達して以来、あまり深追いしていない。自分がそうであるように、彼にも知られたくない事情の一つや二つはあるだろう。
 だから居合が駅までの道の上で卑怯を見つけたとしても、声をかけることはなかった。番長だからといって慣れあいをしたいわけではないし、そもそも卑怯とは性格が合わない。したがって声をかけるのはいつも、自分ではなく卑怯番長だった。
「何の用だ?」
「用って言うほど大そうなものがあるわけじゃないけど、君の姿が見えたから。声をかけないのもどうかなって思って」
「ふん……そうか」
 卑怯番長は許しも得ずに、勝手に居合番長の隣りに並ぶ。歩調を合わせるためか、彼の歩幅はわずかに小さくなった。
 隣に来られたからといって、居合にこれといった話題があるわけではない。卑怯が沈黙すると、自然と居合も黙らざるをえなかった。

 そんな無言の帰り道が、ここ数日続いている。
 会話は最初の二言三言だけ。
 駅に着けばさしさわりのない挨拶をして別れてしまう。
 居合が気のきいた言葉を返せないことぐらい、もうわかりきっているだろう。それなのにどうして、毎回声をかけてくるのか。
 理由を問うてみたかったが、何故だか口にするのははばかられた。
「じゃあ、もう声をかけないね」
 普段と同じ軽薄な口調で、そんな言葉が返ってきそうな気がしてならないのだ。

 落ちていく陽はアスファルトの上に長い影を作る。二人の歩みをそっくり真似する影法師は、決して触れあうことなく一定の距離を保っていた。
 ――そもそも己の真意を容易に見せない卑怯番長が悪い。
 と、居合番長は思う。
 毎日毎日無言の行をして何が楽しいというのか。まさか自分と一緒にいたいというわけでもないだろう。
 考えられるのは、番長同士が側にいれば、他地区の番長襲撃の際に有利だということだろうか。
 そうならそうと言えばいいのだ。確かに自分は、卑怯番長とそりがあわない。しかしだからといって、戦術上の利を手放すような愚かな男でもない。もしそう思われているのなら心外だ。一言言ってやろうと、隣の男を見あげる。
 頭ひとつ分高い場所にある彼の顔は、仮面で覆われていてよく見えない。表情だってそうだ。卑怯はよく嘲笑するように口を歪めるけれど、それはわらっていることを相手に示すためにわざと表情を作っているのだ。そういう挑発の必要がないときは、案外卑怯の表情は乏しい。ポーカーフェイス、と言えばいいのだろうか? 性格も相まって、彼の素の顔を見ることはとても難しかった。
 だから今回も、ふりむいた彼の顔に表情なんてないと思っていた。眉間をきゅっとひきしめて、居合は口を開く。
「卑怯番長」
「なに?」
 正面から軽く、横に首を動かすだけ。
 角度にすれば45度もないかもしれない。
 一秒にも満たない刹那。
 居合の呼びかけに応じてこちらを向いた卑怯の顔には一瞬だけ――けれど、一瞬でそれとわかる喜色が満ちていた。開いた唇の間から、言葉の代わりに吐息がこぼれる。
「――っ」
「どうしたんだよ、居合番長」
 卑怯の声はそっけない。つまらなさそうに帽子をかぶりなおすものだから、見えた表情もすぐに隠れてしまった。けれど、先ほどの笑顔は見間違いではなかったはずだ。これでも桐雨流居合道を極める身。動体視力には自信がある。
 舌の上にまでせりあがっていた文句は、吐息ともに空へと散ってしまったらしい。それもそのはずだ。卑怯が浮かべた刹那の笑顔は、まるで無邪気な子供のようだったのだ。そんな顔をした男に、文句などぶつけられるはずがあるだろうか。
「……なんでもない。もうすぐ、駅に着くなと思っただけだ」
 代わりに紡いだのは、とりつくろうような中身のない言葉だった。駅までの距離なんて卑怯も知っている。意地悪く追及されないのは、無言の帰路に飽きていたからだろうか。
 口ごもった居合を見おろして、「ふうん」と卑怯はまた帽子をいじる。
「珍しいね、君のほうから僕に話かけてくれるなんてさ」
「迷惑だったか」
「いや、べつに? むしろ君のほうが僕の事迷惑がってるんじゃないかって思ってたけど」
「何故」
「だって君、全然喋ってくれないから」
 卑怯の視線は居合とは反対方向に向いていた。身長差のせいもあって、居合からは表情はまるきりうかがえない。背の低いほうではないのだが、この時ばかりは卑怯より小柄なのが悔しかった。
「別に迷惑ではない」
 ゆっくりと、慎重に言葉を選ぶ。理由が分からないから困惑していただけであって、隣に誰かがいる帰り道というのは、少し新鮮で、一人で帰るよりは、少しだけ嬉しかったりしたのだ。
「そっか」
 卑怯番長はぽつりと呟いて、また口をつぐもうとしたようだった。けれど、そのポーカーフェイスを破って、柔らかな笑声が彼の口からもれた。
「よかった」
 まるで安堵するかのような、小さな小さな呟き。
 卑怯の口元に優しい曲線が浮かぶのを認めて、居合は目を丸くする。この男は本当に度し難い。たかだか自分が喋りかけただけでどうして、今まで一度も見せたことのないような柔らかい笑みを見せるというのだ。
 何か言わなければいけないと思ったが、なにも言葉が出てこない。駅までの時間を、今度は少しばかりこそばゆい沈黙が支配する。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
 改札の向こう側で、卑怯が小さく手をふる。いつもならそのまま踵を返すところだったが、今日は卑怯番長の姿が見えなくなるまで見送ってしまった。長身だというのに、彼の後ろ姿はすぐに人に紛れてしまって、消えてしまったのだが。
 結局あれから、文句は言えずじまいだったし、理由も聞けずじまいだった。卑怯番長が何を考えているのかなんて、自分にはさっぱり想像がつかない。
 ただひとつだけわかっているのは、きっと彼が明日も帰る時間を遅らせるのだろうということ。明日は、自分から話をしてみようと思う。もしかしたらもう一度、彼の無垢な笑みが見られるかもしれない。
「はは……私は何を考えているのだか」
 無垢なんて言葉、卑怯番長からは最も縁遠い言葉のように思える。脈絡なくひらめいた単語に失笑をもらして、居合番長は改札口に背を向けた。
 卑怯番長が共に帰る理由。あえてその理由は聞かないでおこう。
 尋ねて奴に意地悪く笑われるよりも、いつか理由を言い当ててやるほうが何倍も爽快だ。
 もし正解を言い当てられたら、卑怯番長はどんな表情を見せるのだろう? 仮面の下で驚く表情を夢想して、居合はくすりと笑う。
 想像上の卑怯の顔とは対照的に、居合番長は晴れ晴れとした顔で歩きだした。
 自分が一度、正解にたどりついているとは夢にも思わずに。










2010.01.15up
>まさか自分と一緒にいたいというわけでもないだろう。
そのまさかである。

タイトル配布元:悪魔とワルツを