スカイブルーのペンキが入ったバケツをひっくり返したんじゃないかってくらいムラなく澄んだ蒼天。そこに薄く引かれた白線は消えかかった飛行機雲だ。儚くなりつつある色に、あと10分もしたら消えるだろうと、秋山は推測する。干し終わった14人分の洗濯物の間から見える空は凪いでいて、昨日までの曇天を感じさせない。
 日曜が晴れてくれて良かった。
 平日に曇り空が続いたせいで、はろばろの家の衣類事情は深刻な問題を生じそうになっていたのだ。庭の隅でパタパタ揺れるパンツ群を眺めて、秋山は軽い笑みを浮かべた。
「よし、これでおしまい」
 洗濯物の水分を吸って、少し湿った手のひらをジーパンに叩きつける。太ももを打つ小気味良い音とかすかな痛みは、次の家事への起爆剤だ。浸しておいた食器を洗わなければ、夕飯でまた一苦労してしまう。
 空の洗濯カゴをひょいとかかえて、秋山は玄関の方へと身をかえす。一歩踏み出した時、表の門扉のほうからひどく緊張した声がした。
「たっ……たのもう!」
 道場破りかよ。
 裏手でツッコミを入れたくなったが、そこは忍びの一字だ。張りつめてはいるがよく通る声は、秋山のよく知るところだった。
 視線をやれば、見慣れた胴着姿が門の前でしゃちほこばっている。奥歯を噛みしめてでもいるのだろうか。唇は一文字に結ばれ、目は常よりも大きく見開かれている。友人の家に遊びに来るだけだってのに、なにをそこまで固くなっているのやら。
 今にも震え出しかねない姿なのに、凛々しく見えてしまうのは造作の勝利だろうか。紅潮した頬は白い肌に鮮やかに映え、ともすれば人形のように見えてしまう端正な顔立ちに生気を与えていた。不安気に髪を押さえる腕が、陽光のもと、驚くほど白く見えた。
 ――そこんとこ、美形って僕より卑怯だよね。
 しかもこの男の場合、自覚していないからタチが悪い。
 進路を門へと変えながら、秋山は口に出さずにひとりごちる。
 自分もそう悪くない顔立ちをしているとは思うが、転校初日に女生徒に囲まれて、写メを撮られるほどではない。それに彼ほどの整った顔があるのなら、番長なんてせずにもっと違う金の稼ぎ方をしていただろう。自分でそれをしないのは、採算が合わなかったからだ。同じ時間をかけるにしても、モデルやアイドルより後ろ暗い仕事の方が割がいい。そうやって選んだ結果、今の自分があるわけだ。
 ついでにこの、奇妙な状況も。
「いらっしゃい、刀也」
「優!」
 横から声をかけると、とたんにパッと笑顔を咲かせた。こちらを向くのにつられて細い髪が宙に舞う。彼のまわりだけ、落ちる光の質が違うのではないだろうか。学校ではめったに見れない桐雨の笑みは、キラキラとしたフィルターがかかっているように見えた。
 卑怯番長イコール秋山優だと知らない桐雨は、秋山の前ではいとも簡単に笑顔を見せる。学校では金剛や女生徒の手前、気を張っているのだろう。マスクを外さなければ決して見られない桐雨の表情だった。
 桐雨の浮かべる笑顔は、生来の整った顔だちに反してどこかあどけない。世間の裏側を知らないから、というのもあるのだろうけど、桐雨の持つ性格の良さが表れているのだろう。笑顔を向けられるたび、王子様に微笑まれたシンデレラの心地を味わえる。
(僕が女の子だったら惚れちゃうかもね)
 腹の内だけで笑って、秋山は桐雨に向きなおる。
「久しぶりだね。一週間ぶりだっけ?」
「ああ。お前に会えるのが待ち遠しかった」
 目をまっすぐに見つめて、桐雨はさらりと告げる。自分がどれだけクサいセリフを言っているのか自覚はあるのだろうか。緊張していた姿をからかってやろうかと思っていたが、毒気が抜けてしまった。あ、そう……ありがとう……なんて、しどろもどろに答えてしまう。
「ごめん、こんなに早く刀也が来るとは思ってなかったから、まだ支度がちゃんと終わってないんだ。外で待たせるのも悪いし、散らかってるの気にならないんなら中、入る?」
「あっ、いや、こちらこそ忙しい最中にすまない! 早く来すぎてしまったのは私なのだから、その責は私が受けるべきであって、優が気にすべきことではあるまい!」
 力説と共に振られる腕が、胴着の袖をぱたぱたと揺らす。桐雨の顔面には黒々と「おかまいなく!」と書かれていた。つくづく居合番長らしい。
「じゃあ甘えちゃおうかな。僕、洗い物あるから、それまで待っててくれない? あいつらも中にいるし、話相手にはこと欠かないと思うけど」
「いや、せっかく早く着いたのだ。私も手伝おう」
「あはは、お客さんにそんなことさせらんないよ。それよりも、刀也を体のいい子守り役にしようとする僕の企みにのってくれない?」
 にっと笑うと、刀也もつられてくすくす笑った。
「優はズルいな」
「ズルくて結構。そうでもしなきゃ君、家に入ってくれないでしょ?」
 門を開いて、ようやく緊張がほぐれてきたらしい刀也を内へと招き入れる。
 さりげなく肩に手をのせると、意外なことにその手は拒絶されなかった。卑怯番長の姿をしている時は、どんな理由があろうとふりはらうのに。
「どうした? 優」
「ん、別に?」
 見あげる桐雨の顔に、少し目をそらしてしまう。
 いくら秋山優が桐雨にとって友人だとはいえ、桐雨は番長だ。それも、気配を察するに優れた居合番長。戯れにのばした手なんて即座に払われると思っていた。友人の手を払ってしまって動揺する桐雨を見て楽しもうと思ったのだが……。
(意外、だ)
 桐雨にとって、秋山はそれほどまでに気を許せる相手になっているのか。それとも単に、卑怯番長がおおいに嫌われているだけなのか。
 置いた指先をどうすればいいのかわからずにいると、桐雨の手が重ねられた。そのまま包むように握って、にっこりと笑いかける。
「行こうか。子供たちは中なのだろう?」
「うっ、うん。きっと、あいつらも喜ぶよ」
 手を握られたのは二回目だけど、初めて彼の手のひらの感触に気がついた。紅顔とは裏腹に、剣士らしく固い皮膚。けれど、伝わる温度は温かく、たまごでも包んでいるように優しい。
 ――僕が女の子だったら惚れちゃうかもね。
 さっき浮かんだフレーズが、今度はわずかに切実感を持ってリフレインする。シンデレラも確か、偽りの姿で王子と会ったのだっけ。
「いやいやいやいや、それはないから」
 脳裏をかすめた可能性と、そんなことを思ってしまった自分に半ば呆れながらツッコミを入れる。どうやら自分は、桐雨といるとどうにもツッコミ体勢に入ってしまうらしい。
「何がないのだ?」
 きょとんと桐雨がこちらを見返す。握った手は肩からおろされているけれど、桐雨の手は離れていない。手の甲から彼の体温が伝わってくる。
 君と恋愛する可能性について考えてました、なんて言えるはずもなく、秋山の口はすかさず桐雨を煙にまく言葉を紡ぎだす。
「僕と刀也が漫才コンビを組む可能性と、お茶の間で大ブレイクできる成功率」
「……は?」
 きょとんとした顔に、今度は「意味不明」の四文字が刻まれる。
「刀也ってイケメンだし、わりと売れると思うんだよね。芸人好きって女の子もよく聞くし、いけるかもよ、僕ら」
「私には、優がどうしてそんなことを言い出したのか、さっぱりわからないのだが……」
「わからなくていいよ。ジョークだから」
 笑いながら手を放そうとすれば、桐雨の手はそれを許さない。秋山の片腕は桐雨に捕らわれたままとなった。絡む五指の中で、今度はこちらの手が緊張してしまう。
 そんな秋山を知ってか知らずか、桐雨は難しい顔をして何か考えこんでいる。大方のところ「冗句? 漫談師をネタにした冗談は聞いたことがないが……。笑いどころを聞いたら失礼だろうか?」とか悩んでいるのだろう。
 眉間のシワが深くなるごとに、桐雨の手にこもる力も強くなる。思い悩むつむじを見おろして、秋山はやれやれと軽いため息をついた。ちょっと煙が濃すぎたらしい。
「そろそろいかない? みんな待ってるからさ」
「あっ、ああ。そうだな!」
 思考の迷路に陥っていそうな桐雨を救出して、秋山は歩きだす。
 家の中に入るまで、桐雨の手が離れることはなかった。










2010.06.24up
シンデレラ→秋山優。魔法使い→卑怯番長。
王子様の配役は、言うまでもありませんよね。