三島は壮麗で空虚な大伽藍を建てたけれど、その中に祠るべきご神体がなかった。それは自分しかなかった。
それで三島は自らを殺害してそこに祠った。というのは女子学生の卒業論文風の説で、本当はあの大伽藍の中には何もないのだ。
三島の遺体は御神体にはならず、大伽藍の外に放置されている。それは解釈できない。消化吸収することができない。
だから無視され、放置されるしかないのだ。風葬にされ、時の風で分解されるのを待つしかない。
ところがポポイたちの行動はその風葬がまだ完成していないと思い出させたわけだ。 私にはわからない。三島がなぜあんなことをしたかということが、ではなくて、 明晰な意識が明晰なまま整然と狂って自己破壊に至るまでのその手順が、どうにもよくわからない。 鮮やかな奇術を見せられたような感じだ。切腹、介錯によって死ぬこと自体が目的だったと想定してみなければすべては理解できないのかもしれない。 それとも、あの死に方は他の目的のための大掛かりなトリックだったのだろうか。 晩年の異常な思想はこのトリックを効果的に見せるための口上にすぎなかったのだろうか。 『ポポイ』 倉橋由美子著 新潮文庫48頁より引用
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あらゆる意味で「人外」である焔。 なにもかも規格外の焔に対し、八咫烏の組織も彼を特別扱いしていた。 しかし、獄牢にはそれが気に入らない。 「人」でないのなら、それ相応の接し方があるはずだ。 そしてそれは、今のような高い評価を得られるようなものではない。 牙持つ獣には枷を。角持つ獣には檻を。 「人」は「人外」を飼いならすことで、ここまでの発展を手に入れてきたのだ。 知能持つ獣には、鉄槌を。 獄牢正宗はただひとり、金剛焔を倒す術を求め始めた―――― |