卯月も半ばを過ぎたころ。 日中に溜まる気だるいほどの陽気を削ぎ落とし、シャープなぬくもりを持つ春の夜は、軽いブランケット一枚で事足りる。熱持つ動物が隣にいれば、それはなおさらのこと。ぐしゃぐしゃになったシーツの上、熱を交わした後の二人は、裸のまま同じ布に包まれていた。あまりにも近くにいるものだから、漂うにおいが自分のものか相手のものかもわからない。鼻孔につまるむっとしたにおいが、雄のにおいだと知ることしかできなかった。 何を結ぶこともなく、果ててゆく雄の種。 においは不毛を責めるかのように、こびりついて、離れない。 少し霞んだ瞳で、優は刀也を見つめる。 適度に肉がついて、しまった腕。 自分とは違って、少年らしい丸さを残したままの肩。 首はダメ、と言われたので鎖骨の終わりに唇で刻んだ淡い紅。 すこしかたい顎は、横顔のシャープな輪郭に精悍さを与えている。 目の前の人に、退廃(デカダンス)なんて言葉は途方もなく縁遠そうだ。 不毛とか、堕落とか、そんな不健康な単語は似合わないだろう。肉体はともかく、精神のほうは「健全」が服を着て歩いているような男なのだから。むしろ、多少なりとも性欲というものがあったことのほうが驚きだった。 「刀也」 名前を呼んで、話すべきことが何もないことに気がつく。語るべきことは言葉ではなくて、もう体で語ってしまったから。全てを出しきったあとの心地よい倦怠感が二人の間にわだかまっていた。ふりむく刀也の動作も、どこか弛緩している。 「なんだ?」 問う瞳の光も、睫毛の影に隠れてしまっていた。 「なんだろ……? なんででしょう? 当ててみて」 「……言ってみただけ、という答えはなしだぞ」 「バレたか」 ペロリと舌を出すと、ベットの上で頬杖を突かれてしまった。顎と手のひらの間に数房、細い髪が挟まってしまっている。とってやろうとして頬と髪の間に指を入れた瞬間、ふっと馬鹿らしい思いつきがひらめいた。 「こどもより……」 「え?」 刀也が顔をあげる。途端、髪は手のひらのくびきから放たれてさらさらと流れていった。代わりに、優の指が頬に触れる。 さっきより少し大きく開かれた目に、歌うように馬鹿な話をしてみる。 「子供より、シンジケートを作らない? 僕と刀也の二人だけでさ」 「……」 数秒の停止の後、刀也の眉間へスローモーに皺が集まっていく。 ごめんごめん、今のなしなし、気にしないでほんとに軽く言ってみただけだから、深い意味はないから。と、さっきの言葉を取り消そうと舌を動す寸前に、刀也の声が鼓膜を揺らした。 「しんじけーと、とは、洋食か何かの名か?」 今度は優が停止する番だった。 「ごめん、君が日本文化番長だってこと忘れてた」 「人の號を勝手に作るな」 刀也が尖らせた唇にキスをしたら、真面目に答えろと怒られてしまった。 シンジケートという単語の意味を簡単に説明するが、自分のうわついた睦言の解説ほど、恥ずかしいものはない。かゆくもないのに頭を掻きながら、優は言わなければよかったと悔んでいた。いくら好き同士だからと言って、馬鹿げた夢みたいな話なんて、するものじゃない。 意図を理解すれば、刀也は一笑にふすだろう。「なにを馬鹿なことを言っているのだ」と。すぐに笑い飛ばしてくれれば二人で笑っておしまいにできたのに、与えられてしまった執行猶予はあまりに長い。大ざっぱに言えば海外のやくざ屋さんみたいなもんかなと締めくくると、刀也はほう、と息を漏らした。 「つまり、犯罪組織と言うことか」 「そうなるね」 君と僕、たった二人のシンジケート。 許されない過ちを犯して、二人で逃避行にしようよ。 そんな戯言を言ったら刀也はきっと怒るだろう。この人はまっすぐな人だから。 ――さて、お小言をどうやり過ごそう。頭の中で算段を立て始めると、目の前ににゅっと指が一本。白い人さし指の根元から、天を指す親指が生えている。 「壁に向かって手をあげろ。反抗するようならば容赦はしない」 指先に合わせていたピントを、慌てて声の発信源に合わせる。真面目腐った仏頂面の中に、笑いを含んだ瞳が二つ埋まっていた。よくわからない。 「えっと、刀也、やっぱり怒った?」 おずおずと両手をあげてみる。 ぎこちない愛想笑いを浮かべると、刀也は銃を下ろしてぷーっと吹きだした。 「まさか本当に手をあげるとは」 「ちょ、ちょっと待ってよ! 手をあげろって言ったのは君じゃない!」 「シンジケートなどと、よくわからない言葉を持ちだしたのはお前だろう」 「いや、それは……そのっ」 かゆくない頭をさらに掻きむしる。きっと顔だって赤くなり始めているだろう。ただでさえ恥ずかしかったところにこの追撃だ。ポーカーフェイスにも臨界点がある。 刀也とは反対側を向こうとすると、すかさず腕をつかまれた。 「優」 「な、なんだよ」 視線をそらしたら許してくれなさそうなので、仕方なく赤面し始めた顔をさらす。 「私は優が好きだから。だからお前が道を踏み外すというのなら、どこまでも追っていこう。 絶対に正してやる。覚悟は決めておけ。私は存外狭量で、人の過ちを許せない男だ。 愛しい人間ならば、なおさら」 そう言って。 そんな優しいことを言って。ふんわり、笑う。 「とう、や……」 おそらく赤面は、もうごまかせない程に濃いだろう。 繋がっていた時よりも赤くなってるかもしれない。手の甲を顔に持っていくけれど、きっと手遅れだ。刀也の柔らかい視線が心拍を加速させていく。 「べつに僕は、君に追われるためにまた道を踏み外したりなんかしないし、だいたいこれは冗談なんだから」 「ああ、わかっている」 刀也は手をほどいてまた頬杖をついた。けれどその白い手は、優が落ちていく時には絶対に、つかんでひきあげてくれるだろう。自分よりずっと細い腕が、こんなにも頼もしく見える日が来るなんて思いもしなかった。 ブランケットを引っ張る。できることならくるまって、この赤面をどうにかしてしまいたかった。 けれど、引っ張ったぶんだけクスクス笑う刀也がついてくる。ベットの上の追いかけっこ。勝算もなければ、どちらが鬼なのかもわからない。刀也が優を捕まえようとしても、刀也はずっと前に優につかまっているのだから。メビウスの輪のようにくるくる回る、終わりのない鬼ごっこ。 けれどもそれは、たった二人のシンジケートで許されない過ちを犯すより、ずっとずっと幸せなことのように思えた。 |