煉瓦作りの壁に、黒瓦の屋根。
薄い羅紗のカーテンに、七宝焼の柱飾り。
西洋の文化と、極東の島国の文化を詰めこんだ西洋風の館の一室。
書棚に並ぶ羅甸語・独逸語・英吉利語・仏蘭西語。
すべて彼の言葉ではない。すべて読んだというのだろうか?
部屋の中央、猫足の西洋椅子に座りながら、彼女はそんなことを考えた。
赤緋の
こんな上等な布を足蹴にするだなんて!
彼は畳の生活を捨ててしまったのだろうか。
彼女自身がそういった生活をしていたわけではないが、ずっと仲の良かった隣人がどこの誰とも知らない者の色に染まっていくのは、不安だった。
まして今――彼の暦で言うのならば、二五五五年。
彼女たちの哥哥に牙を向いたとあればなおさらだった。
黒い短髪が、硝子の窓を通った陽光にきらめく。
白い軍服がうっすらと橙に染まっている。もう夕暮れなのだろうか。
彼は彼女に背を向けて、空を見ているようだった。
手が窓枠につかんでいるせいか、ひどく肩幅が広く見える。
斜光のせいで、表情がよく見えない。
彼女を連れてくることで、彼はいったいどうしたいのだろう。
彼が帯刀していないということが、逆に彼女を不安にさせた。
髪を切ったのも、刀を手放したのも、西から伝わった新たな力の影響だ。
彼は変わってしまったのだろうか。
西の者たちと同様に、力を手にし、彼女たちを屈服させたいのだろうか。
たぶん、彼はもうその為に充分な力を手に入れている。
窓枠に手をついたまま、彼が振り向いた。
「僕がやらなくてはならないんだ」
色濃くできた眼下のクマをそのままに、彼が微笑する。
紅を刷いたように朱色に滲んでいるのは唇と眦。
きっと泣きはらしたのだろう。
自分が泣いていることがわからないくらい、涙を流すことが当たり前になって、
流すべき涙が枯れてしまって、だからもう泣いていないと誤解して、
以来ずっとずっと哭している。
彼女を見つめながら、けれども焦点はあらぬ場所に合わせたまま、彼が唇を動かす。
「僕が守らなければならないんだ」
頑是ない子どもに言い聞かせるように、彼はくりかえす。
流血の代償に値する言葉を。
亡者の怨嗟を打ち消す言葉を。
彼女を懐柔する言葉を。
(うそ)
呟いてみようかと思った。
守ると言っても、結局やることは一緒だ。
血を流す。田畑を焼く。命を失う。滅びをまきちらす。
彼と共に戦ったものも、彼の哥哥と共に戦ったものも、感じる痛みに差などないのだから。
返答を待ち切れなかったのか、彼が彼女の前で膝をついた。
自由を奪うように、両手を包みこまれる。
巻いていた白い包帯と同じくらい白い彼の手。血の気を失っているのだろう。
彼らはMongoloidだ。遥か西方のCaucasoidのように、色素をほとんど持たないということはありえない。
いや、「遥か」西方と呼ぶにはもう時代が進みすぎた。
人の、文明の成長は彼らをも成長させ、遠方の彼らと彼が傷つけあうことを可能にしてしまった。
彼の十指が優しく手首に触れる。死んだ魚のうろこのように白い爪。
細い指先は昔、器用におもちゃを作って彼女たちと哥哥を喜ばしていたけれど、今は死を赤く連想させるだけだった。
「いいかい? 考えてもご覧。
哥哥は獅子になれなかった。半島の彼はなおさらだろう。
西の奴等はおろか、北の彼だって僕らを狙っている。
君は君だけで君自身を守れる? 哥哥を、皆を守れる?」
甘露を含んだ子どものように、彼は目を細める。
赤く腫れた瞳が彼女の瞳に映りこんだ。
「……」
返事をしようとして、彼女の口が開かれた。
けれど、言葉は出ない。
どんな返答であろうと、彼を止めることはできないのだと、直感していた。
ほがらかな笑い声が、彼の唇から洩れた。
「ほら! 答えられない!
僕がやるしかないんだ。僕がやるしかないんだ。
ColoredがCaucasoidより劣等だと、誰が決めた?
ColoredもCaucasoidも同じ人間だ。同じ国だ。証明しなくてはならない!
うち立ててねばならない! 新しき論理を! 新しき倫理を!
哥哥にはできなかった。けれどCaucasoidがするわけない。
ならば、僕だ。他の誰でもない、この僕が! 守らなくてはならないんだ!!」
異国の単語は彼女にはわからなかった。
ただ、彼が興奮していることだけがわかる。
彼女の両手を握る手の圧力が、痛いほど強くなっていた。
(かわいそうなひと)
彼女は静かに思う。
一人で勝手に、何を背負っているのだろう。
そんなこと、誰にも理解されやしないのに。
彼は考えすぎてしまったのだ。
論理とか、倫理とか、頭の中だけで通用するルールで。
今、起こっているのは、ただの食らいあい。
戦争という名の、覇権取りの残虐ゲーム。
帝国主義という化け物に、みんな踊らされているだけ。
言葉は、ゲームの煽り文句でしかなく、酔ってはいえど、信じているはずない。
新しい綺麗で魅力的な言葉が現れれば、きっとそれに飛びつくだろう。
そのとき、彼の言葉は、信念は、空虚を露呈する。
崩れ落ちる彼が見えるようだった。
瞳を閉じる。
太陽の光が強くて、瞼の裏でもまだちかちかと赤が見えた。
血を流す代わりに、太陽を戴けばいいのに。
かれはずっとずっと昔から、哥哥を怒らせてまで、太陽の化身であることを選んでいたのに。
瞼を開くと、哭いている彼の顔があった。
両手の自由は奪われてしまったから、彼女は首を落とすことにした。
黒髪を吐息でかきわけて、耳朶に囁きかける。
「 」
彼の名前が、夕陽色の天鵞絨に沈んでいった。
了