さよならだ、もう二度と

 もう二度と繋げないと知りながら、手を放してしまった。
 おまえはあんまりにも純粋だから。
 怖くなってしまったのだ。
 未来という領域で、真っ黒な口を開けて待っている楽園が。





 手を繋ぎ始めたのはいつのことだったのか。
 おそらくそれは、もう思い出せないほど昔の話だろう。きっとおまえも覚えていない。まるで前世から定められていたかのように、いつの間にか二人で手を繋いでいた。そうすることが一番自然で、おまえと手を繋いでさえいれば、この世は何もかもがうまく行くように思っていた。たとえ互いが違う方向を向いていようとも、指と指を絡めていることが、おまえとの絆だったんだろう。
 本当に、それ以上はいらなかった。



 狂い始めたのはいつのことだったのか。
 師が亡くなって、おまえは深く悲しんだ。誰よりも師を敬愛していたおまえだから、復讐という道に走るのは当然ともいえよう。世界という敵に立ち向かうには、あまりにもちっぽけな二人。勝算なんて、ない。行く末に、炭のような暗澹を孕む淵が待っていることなど、気にもしなかった。いいえ、おまえにはそれが楽園に見えていたんだろう? わかっている。手を繋いでいたときは同じように見えていたのだから。道に殉ずるとは、何故、かくも甘美な誘惑なのか。破滅という漆黒の楽園を、まっすぐに見つめて歩いていた。生きることが色褪せるほどに、その楽園は魅力的だった。
 あのまま黒い楽園だけを見つめられていたのなら、きっと二人は幸福だったろう。二人して、笑みながら(それが狂笑と呼ばれるたぐいのものであろうと)しあわせにしあわせに破滅したんだろう。繋いだ手のせいで、心中する男女に見えるだなんて冗談をとばしながら。



 狂いきったのはいつのことだったのか。
 しあわせな道程から、はみでたのはおまえではない。おまえは今でも黒の楽園に捕われているんっだ。怖いほど恍惚とした表情で、歩いていくんだ。暗澹へ。
 変わってしまったのはこちら。楽園だけを見ていれば良かったのに。おまえだけを感じていれば良かったのに。気づいてしまったんだ。道端の可憐な花の白さに。頭上の澄みきった空の青さに。吹き抜ける風の心地よさに。醜い現実の尊さに。かげがえのない明日の貴さに。おまえの狂気に。楽園の、嘘に。



 怖くなってしまったんだ。楽園を装っても、破滅は破滅。殉死という美語で修飾されても、死は死以外のなにものでもない。世界を壊すことがいかに傲慢か。知ってしまったんだ。怖くなってしまった。手を放してしまった。さみしさは罰だろう。おまえへの裏切りに対しての。


(おまえだけを見ていた)(おまえだけを見つめて、いたんだ。ほんとうに)


 もはや、おまえと同じ道を歩むことは叶うまい。次に会う時は、殺しあう。言葉を交わすことも、きっとままならんだろう。断罪の刃は、どちらの首に落とされるのか。おまえに殺されるなら、それもそれでいい。おまえに殺されるのだけは、怖くない。
(だっておまえだけを見つめてきたのだから)



 さよならだ、もう二度と手は繋げない。

2007.08.01up
2014.05.10改稿後up