「ソファの上で寝るんじゃない!」
とあるマンジョンの一室、青年は鋭い口調で命令した。男にしては長いマツ毛に縁どられた瞳がこれ以上は無いというくらいに細められている。
「さぁ起きてベッドに行くんだ。眠るのはそれからだよ万里子さん。起きなさいってば」
自室だというのに黒のスーツにネクタイというスキのない格好をした彼の名は「男谷マモル」という。もっとも、それっは彼が持つ幾つもの名の内の一つにすぎないのだが、あいにくとこの部屋の中にいる人間は彼のことを「男谷マモル」としてしか認識していない。
黒い短髪を片手で掻きむしりながら、男谷はソファへ近づいた。目的は脚を大きく開いて大口を開けて、いかにも気持ち良さそうないびきをかいている娘。千里万里子という名を持つ彼女は、とある事情で男谷に預けられている。期間は三ヵ月。その間に彼女を淑々たる女性にしたてあげるのが男谷の仕事なのだが、この分では道は遠いとしか言えない。
「起きてくださいってば。あと10数えても起きないんなら叩いてでも起こしますよ。そら、じゅーぅ……」
ぱん、とひとつ手拍子を打っても千里は起きない。鼻ちょうちんでもふくらましそうな寝息で、男谷の神経を刺激するだけだった。
「……ろーく……ごーぉー」
寝息は止まない。男谷はちらりと腕時計を見て、今の時刻を確認した。9:35。もう家政婦は帰ってしまった。宵の口とはいえ夜である。若い娘が男と一つの屋根の下にいるには少々安全性に問題がある時間帯だ。
「さーん、にーぃ。……本当に寝てるんですね、万里子さん」
手を叩くのをやめて男谷はひとつため息をついた。千里が寝ているソファの肘かけに腰をかけ、彼女の寝顔をのぞきこむ。後ろから軽くひとつきされたら、間違いなく顔面が衝突する距離になっても、千里は目覚めない。吐息が痛いくらいに吹きつけてくる。
「レディーとしての自覚も持ってくれなきゃ困るな、万里子さん。こんな無防備な姿をぼくの前以外でさらしてごらんなさい。きっと襲われてしまいますよ?」
つとめて瞳に感情をのぼらせないようにして、男谷は言葉を紡ぐ。いっそ無慈悲とさえ言えるような目のままで、彼は千里のあごに手をかけた。
「それともあなたはぼくに絶対の信頼をよせてるとか? 男谷マモルは千里万里子を襲わない? それは幻想ですね。確証がない。そんな仮説、いつだってくつがえせるんですよ?」
あごをつかむ手にわずかに力をこめる、寝苦しいのか、千里は眉根をよせてかぶりをふった。
「それともそれとも、ぼくを男として認識していない? 随分と失礼な話じゃありませんか。ねぇ、万里子さん、起きてくださいよ。ぼくを見てくださいよ。でなければ、ぼくは――」
台詞を忘れた俳優のように、男谷は身動きをとめた。息さえ求めて、彼は千里を見つめ続ける。こおったような時間の中で、とけいのはりとしんぞうだけが音として生きていた。
「――――ねぇ女刑事さん、ヤっちまうぞ?」
瞳におどけた色を浮かべ、彼は千里のあごから手をはなした。すっくとたちあがって、腕をまわしながら苦笑を浮かべる。
「これを三ヵ月続けるって? まったく、因果な仕事もあったもんだ。生殺しじゃないか。千里の親父さんもよう言うよ。これで報酬は雀の涙ときたもんなぁ。七色いんこも仕事を間違えたぜ」
何がおかしいのか、彼はくつくつと忍び笑いをやめない。千里を起こさないように遠慮はしているのだろうが、それでも笑い声はおさまらなかった。
「ま、報酬の不足分は体で払ってもらうことにしましょうか。千里刑事どの、これくらいは大目に見てくださるよな?」
彼の頬から不敵な笑みは消えない。ソファで眠るじゃじゃ馬姫の枕元にひざまづき、彼は彼女の唇を盗んだ。
「こりゃあ、セカンドもゲットかな?」
忍び笑いは長らくやまなかった。
了