「冷たっ!」
戯れの延長線上に待っていたのは、小さな発見だった。
「なによこれ、いんこ、あんた、手袋してんでしょ? なんでこんなに冷たい手してんのよ」
冬に入りかけた霜月の夕暮れとはいえ、あんまりにも低い体温に、あたしは思わず声をはりあげた。革の手套に包まれたいんこの手は、氷の塊から、つららが五本伸びた氷細工ですと説明されても、なんらおかしくはないように思えた。説明を求るように奴を見ると、いんこはこともなげな表情で口を開く。
「ああ、冷えてるんだろ」
眉一つ動かさない、というのはこのことを言うんだろうか。無表情と言ってもいいぐらい、興味のない顔でいんこは結論を示した。名優と誉れの高いこいつのことだから、本心と表情をまったく別のものにすることぐらい、お手の物に違いない。けど、今その演技をする必要はないだろう。本当に、自分の体温に興味がないのか。
「それより刑事さん、気はすんだかい? だいたい、こんな道端で、指紋なんてとれるはずないんじゃない?」
あたしの戸惑いをよそに、いんこは常のごとく、飄々とした口調と顔でからかいの言葉を投げる。確かにそれは事実だ。路上で準備もなしに指紋をとる芸当、あたしにはできやしない。けど、素直に認めるのも悔しいから、噛みつく勢いで怒鳴り返してやった。
「うるさいわね、そんなことわかってるわよ!!」
いつもの喫茶店からの帰り道、他愛のないきっかけで指紋の話になった。奴はいつも手套をはめているから、指紋が採れたことがない。それに言いがかりをつけて、手套を脱がそうとしたのだった。被疑者でもないいんこに、そんな捜査ができる権限をあたしは持っていない。だから、戯れのつもりだったし、いんこも薄々感づいてたのだろう。本気で抵抗することはなかった。とっくみあい、というにはあまりに幼稚な小競り合いを経て、勝ったのはあたし。奴の右手から手套をはがすことに成功した。そして、あらわになった繊手に触れてみれば。
――骨の髄から凍ったような、ひどく冷たい、五指。
「刑事さーん、そろそろ満足してくださいって。オレの手って繊細なんすよ? 役者の演技は爪の先まで見られるんだから。きちんと保護しとかないとダメなんだよ。ほら、手袋返せって」
うさんくさい仮面の下で眉間に皺をよせて、いんこはぶつくさ文句を垂れ流す。
あんたの演技なんて知ったことですか、と返すと奴はあからさまに消沈した表情を浮かべた。
「世界各地で名優と謳われる七色いんこの演技をどうでもいいとはね。まったく刑事さんには恐れ入るよ」
けれどきっと、それは本心なんかではないだろう。あたしのちょっとしたいじわるに、オーバーなアクションをとるのはこいつの得意技。あたしは、その大仰な演技の下から、彼の本心を盗み取るすべを持っていない。だって、刑事だし。泥棒は奴のほうだし。
「……さーむーいー。けーじさんのおーぼーだー! 早く返さないと、警察権力の乱用だって、訴えてやるぞー」
あたしには、彼のマスクを剥げない。たとえ仮面をむしり取っても、その下にあるのは素顔なんかじゃなくて、メイクで造られた誰かの顔。素顔さえ、本名さえ知れない男の心を、あたしがつかめるはずがない。
この男は、冷やかな骨を持つのかもしれない。
ふと、そんな突拍子もない妄想が浮かぶ。
体の芯から冷めきっている。熱の一かけらも持たない。冷やかな、冷ややかな骨。他人を寄せつけない冷気はそこから放たれるのだろう。その冷気は、きっとあたしも必要としていない。
「ちょっと刑事さん、さっきから黙りこんじゃって、どうしたのさ? もしかして、俺の素手に惚れちゃったとか? いや、気持ちはわかるけど、仮にも公僕がそこまで手フェチってのも、どうかと思っ」
「黙れ犯罪者」
体温が感じられない言葉ばかりを吐く彼を遮って、あたしはいんこの手を握った。そぅっと、包むように。
「刑事さん?」
「うっさい。寒いならこれでいいでしょ。なんか文句ある?」
幸い、あたしの体温は高いほうだ。理由としてはおかしくないはず。
「いえ……その、ありやせんが……」
どうして? と言いかけた口をギロリと睨んでつぐませる。
こいつが冷やかな骨を持つというのなら、溶かしてしまえたならいい。他人を寄せつけないなら、あたしが追っていってまとわりついてやる。
いんこが空を見あげて、軽くため息をついた。
「積極的だこと」
「なんか言った!?」
「いんやー。なにも」
けれど、彼は軽く、ほんとうに軽くだけど、あたしの手を握り返してくれた。
了