「――、」
彼女の本当の名前を口の中で転がした。母音がすべてoで形成される彼女の名は、鼓膜に触れると淡い雪のようにもろく崩れてしまう気がする。
ナイトランプの、赤みが強い光の中で、いんこは素顔のままだった。
夢の中に幼い彼女が出てくるのは、そう珍しいことではない。ただ、うなされて、深夜に目覚めるのが少ないだけで。
「まだ、駄目なのか」
額に浮かんでいた汗をぬぐう。ベッドに組み込まれたデジタル時計は、午前三時を示していた。交通量の多い通りに面していたホテルだが、さすがにこんな時間に起きている人間は少ないのだろう。室内の空調の音以外は何も聞こえなかった。そのせいで、自分の荒い呼吸がよく響く。
備え付けの冷蔵庫に入れておいたミネラルウォーターをとりに、彼は立ちあがった。ホテル特有の、意味もなく大きな鏡に、自分の素顔が映る。青ざめたそれは、変装を常としているせいか、どこかよそよそしく感じた。
「バカな七色いんこ! おまえは恋などしない道化のはずだろ!」
人差し指を突きつけて、鏡の男を嘲笑う。
七色いんことは、彼の変名であり、彼を支配する名でもある。
彼の命を救った師がつけたそれは、師の死を経たのち微妙に変形して、彼を束縛する。即ち、師の後を追えと。
師匠の死を目の当たりにした七色いんこは、師匠のようにあることを決意した。役者として巨悪に立ち向かい、舞台の上で華々しく散る宿命。それをそっくりトレースする道化の名。だから、彼が永く胸に秘めていた、清純な恋心とは無縁のはずなのだ。彼女を愛してはいけないし、彼女を夢に見るなんて言語道断だ。
師には愛する人はいなかった。少なくともいるようには見えなかった。彼が師匠を真似るのならば、愛する者のために生き残ることを計算のうちに入れない戦い方をしなくてはならない。それなのにこのありさまは何だ。彼女を思い返し、彼女にとらわれ、彼女を求めている。
「七色いんこは、あんたを愛してなんかいないんだ」
夢に出てきた、優しい笑顔の彼女をにらみつける。幼い彼女を必死でかき消そうとするのに、彼女は幾度も夢に描かれる。
いずれ死んでしまう七色いんこは愛する人を幸せにできない。だからだれも愛してはいけない。
それを知っているはずなのに、鍬潟陽介は朝霞モモ子を求めてしまう。棄てられない愛情が、「彼」には辛すぎた。
どれだけ上手く演技をしても、自分にウソはつけない。
そんな真実をかみしめて、彼はミネラルウォーターを飲みほした。冷たい水がのどを落ちていく。深夜の闇が、自分の心も惑わせてくれればいいのに。けしてかなえられない願いを祈りながら、自分をだませない名役者は再度ベッドに倒れこんだ。
了