■注意
■モブ視点
■死ネタ有り
旅籠の娘の住む村はリオネスのはずれ、王都からは遠く離れた田舎にあった。国境を越えるためにやってくる旅人に、温かなスープと固いが清潔なベッドを提供するだけの、小さな小さな旅籠。父親から店番を任されていた娘は、客の来ない時間をうかがって、こっそりと本を読むのが好きだった。図体ばかりは大きいくせに、心も脳みそも小さい兄は、そんなものを読んでなにが面白いのかと首をひねるが、娘にとって、本はなによりも夢中にさせてくれる魔法だった。読みはじめると、周囲の音がなにも聞こえなくなって、ことによると、客が来たのにも気がつかずに夢中になって読んでしまう。
今日も娘は受付の内側で、古い本をめくっていた。記されているのは、古の伝説。異なる種族が力をあわせて魔神族を封印したというお話に、娘はすっかりとりこになってしまっていた。なかでもとりわけ妖精の話が好きで、活躍する妖精たちの美しさや勇ましさを脳裏に描いては、うっとりとため息をついていた。もう、何度読みかえしたことだろう。蝶や蝉のように美しい羽を持つ妖精たち。一度この目で見てみたいものだ。今となっては、妖精なんてめったに見られるものではないから、叶えられない望みだけど、娘は本当にそう願っていた。
妖精たちを描きだす一節を、娘は愛おしげに指でなぞる。
扉にかかった鈴のかすかな音に気がついたのは、娘にしてはよくやった方だった。急いで本を閉じ、顔をあげると、初老の男が娘を睨むようにつっ立っていた。
「いらっしゃい! お連れさんはいるかしら?」
パッと笑みを浮かべて歓迎すると、男は驚いたように隻眼を見張る。眼帯をつけ、汚れた鎧の彼は、なにかしら事情があるのだろう。旅をする者の詮索をしないのが旅籠のマナーだ。男はすぐに顔から表情を消し、ゆっくりと首をふった。
「そう。だったらお客さんは一人ね。一泊は銀貨四枚よ。夕食は宿で食べる? それとも外? 宿ならまだ食堂が開いていないから少し時間がかかるわ。エールならすぐに出るけど。一杯いっておく?」
無口な旅人には、とにかく愛想よく矢継ぎ早に畳みかけるのが肝要だと、娘は母から教わった。こちらの問いにイエスかノーかをはっきりさせて、お客の要求を満たしてあげる。それがビジネスってものよ、と母は得意げに言ったものだった。
男は再び首をふる。
「いらないよ。エールは飲まないことにしてるんだ。忘れちゃ困ることがあるもんでね」
「そう。だったら水でも出そうかしら?」
男は答えずに娘の本を指す。
「なにを、読んでいたのかね?」
「あ、え〜っと」
お客にはばれていたらしい。父に言いつけられたらまた怒られてしまうと思いながら、娘は本を閉じたままカウンターに置いた。
「古い伝説の本よ。人間と妖精族と巨人族と女神族が力をあわせて魔神を封印した伝説のお話。リオネスでは有名な話だわ。お客さんもご存じ?」
「ああ、知っているよ。……そうだね。君たちにとっては、古いお話だ」
隻眼を細めて、男は本の表紙に触れる。開いて読み始めるのかと思いきや、彼はゆるりと首をふった。
「水を一杯頂けるかね? ……渇いているんだ」
「もちろんオーケーよ!」
男を食堂に案内し、厨房からグラスにくんだ水をとってくる。腰をおろした男は鎧のまま、太刀を外しもしない。猫背気味の後姿に、娘は兄を思い出す。兄も黙っていると怖く見えるのだが、口から出るのは小さな鼠のように頼りない言葉ばかりだった。男も体ばかり大きくて、案外小心者かもしれない。そんなふうに思うと、娘は眼帯の男が急にかわいらしく見えてきた。
「お待ちどうさま」
テーブルに水を置くが、男はグラスを眺めるばかりで手を出そうとしない。落ちくぼんだ目がぴくりともまばたかずに、澄んだみなもを見つめている。
「心配しなくても、これっぽっちのお水でお金なんてとらないわよ」
軽口を放ると、男はようやく視線を娘にむけた。影が落ちた目元は、疲れがたまっているのだろうか。どこか淀んで、光がなかった。
「金って、なんなんだい?」
と、無表情には似あわない冗談を口にする。思わずぷっと吹きだしてしまった。
「いやぁね、お客さん! 街の方ではそんな冗談が流行ってるの?」
「冗談じゃない。本当にわからないんだ。人間が金をほしがるってのはわかった。けど、なんなんだい、いったい。どうしてそんなものほしがるんだ」
まとった雰囲気は暗いが、案外面白い男なのかもしれない。あくまで冗談を続けるつもりなら、のってやるのもサービスのうちだ。
「そりゃ、お金をほしがらない人間はいないでしょうね。みんなこれで生活してるんだから」
「チミもそう?」
「そりゃそうよ。世の中お金で買えない幸せがある、なんて言葉もあるけど、幸せじゃお腹は膨れないのよね」
田舎に暮らす娘の、それはひとつの諦観だった。たとえば本は娘に大きな幸せをくれるけれど、手に入れるにはお金がいる。身にすぎるほどの大金を望んだことはないが、あるにこしたことはない。冗談のつもりが本音をこぼしてしまった。
「そう……。やっぱりチミも人間なんだねぇ」
「まあね。女神様や魔神族じゃないわ」
「ふぅん」
つまらなさそうに、男はうなずく。娘は口元に愛嬌をたっぷりのせて笑いかけようとして、そこで目にしたものに凍りついた。
男の背のむこう、いつの間にか開いていた旅籠の入り口に、血まみれの兄が扉にすがるようにして立っていた。大きな体が、やけに縮こまって見える。
「お兄ちゃん!?」
思わず叫ぶと、兄は震える腕をつきだして、ガラガラの声を響かせる。
「おま……え! はやく、逃げっ……ろ!」
「どっ、どういうこと!?」
隻眼の男を、両目をかっぴらいて睨みつけている兄は、いつもの兄とはまったく違って見えた。かけよって体を支えると、ぬるりと手に温かい液がからみつく。
「妹にはっ、手をだすな……! おれに、なにを、してもいい、から……っ」
男は応えず、のっそりと立ちあがった。ゆったりとした動きで水を飲みほし、グラスを置く。つまらない虫を見るような目で、ああ、と、呟いた。
「殺しそこねたか」
グラスを置くのと同じぐらい自然に、男は腰の太刀を抜いた。刃がぎらりと怪しく光るのを、娘は信じられない気持ちで見ていた。いったい、なにが起こってしまっているのだろう。ほんのついさっきまで、男とは他愛のない話をしていたはずだったのに。がくがく震えだす手を、兄の大きな掌がつかむ。かすれた声で名前を呼ばれた。
「みんな、あいつに殺された……。早く、逃げろ」
「で、でもっ、お兄ちゃんは!」
「おれのことは、いいから」
こんなことを言うなんて、兄らしくなかった。兄は体に似合わぬ小心者で、妖精みたいな勇ましさも頼もしもさっぱり持ちあわせていないはずなのに。
首を横にふっても、兄は許してくれなかった。娘の手を離し、とん、と肩を押す。
そのはずみで、娘は扉のむこうを見てしまった。普段ののどかな山や家々は変わらないのに、通りに点々と倒れた人の影が続いている。赤く変色した土を見なくとも、そのすべてがもう息をしていないことは察せた。さんさんとさす太陽が、どうしていつもと変わらないのか、よくわからない。足が震える。だけど、ようやくわかった。逃げなくては。
「麗しき兄妹愛ってやつだねぇ〜」
耳のすぐ後ろで聞こえた男の声は、さっき冗談を言っていたときよりもずっと生き生きとしていた。
「俺っちもそうやって、やめてくれって言ったっけなー」
「え?」
背中に熱いなにかが走る。一拍遅れて、すざまじい激痛が脳を襲った。焼かれたように熱い衝撃に、その場に崩れ落ちていた。兄がなにやら叫んでいるが、なにを言っているのかは聞きとれなかった。
痛くてうまく動かせないが、そっと背に手をのばすと、熱くてぬるりとしたものが触れた。きっと、兄が流しているものと同じだ。兄の言うことにもっと早く従っていればよかった。
後悔は役に立たずに、娘の意識は痛みのなかで小さくなっていく。兄が彼女を揺さぶるが、その感覚も遠くなっていく。
「しっかりしろ……!」
懸命な呼びかけも、娘の痛みをかき消すことはできない。徐々に黒くなっていく視界のなか、娘が最後に見たのは、歪み切った兄の顔と、その背後から迫る一刀。そしてその太刀をふりあげた男の、どこまでも疲れきった暗い無表情だった。
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リオネスのある村で起きた惨劇は、調査の結果、ある一人の妖精の手によってなされた虐殺であると結論がくだされた。村人は村の入り口からひとりひと殺されていき、最後に旅籠の娘とその兄が殺されたようだ。兄と妹は折り重なるように倒れていた。兄が妹をかばったものとみられるが、妖精は無慈悲に彼らに凶刃をあびせたものと考えられる。旅籠の受付には、兄妹のものと思われる書物が開いたまま残されていた。血のついた跡が残っているのは、二人のどちらかが最後に手にしたからだろうか。皮肉にもページは妖精と人間が協力し、魔神の手下を退けるというシーンであった。
了