008:「僕はあなたをこんなにも愛しいと思っているのに」

 睡魔に捕らわれた千里万里子を救い出したのは、頭に伝わる妙な感触だった。
 優しい体温を持つ指先が、万里子の髪をかきわけて頭を撫でる。腹立たしいほどゆっくりと地肌をなぞり、じれったくなるほど丁寧に髪を梳く。
 しどけなく横たわってソファを占領する万里子を起こすわけでもなく、その指先は彼女の頭を撫でていた。時折ひっかかる髪のからまりを、嫌がるでもなく、むしろ楽しそうにほどく。くすぐったさと心地よさのちょうど中間にある感触があまりにも優しくて、万里子の覚醒はひどくゆっくりとしたものだった。閉じた瞼の上から蛍光灯の光を感じているのだけど、瞳を開くまで起きられはしない。目を覚まして感触を失うよりは、ずっとうたた寝の心地よさを味わっていたかった。
「ん……」
 けれど、目覚めようとする脳は彼女に瞳を開けることを強要する。子供がいやいやをするように、喉の奥で反論してみたが、結局瞼は持ちあげられてしまった。あおむけになっていたからか、視界には白い天井が広がる。眼球を突き刺す蛍光灯の白光が痛くて、すぐにまた眼をつむってしまう。光から逃げるように、横向きに体を直した。
 指先の主は、万里子の覚醒に気づかずに、同じペースで頭をなでていた。ソファは万里子が使ってしまっているからきっと、肘かけの部分に腰をおろして、横から手を伸ばしているのだろう。寝起きよりももっとぼうっとした、半ば睡眠している意識はそう考える。
(男谷さん?)
 今、万里子が暮らしている部屋の主人は彼だ。万里子の頭を撫でるのは、男谷しかいまい。とはいえ、万里子には信じられなかった。いくら仕事のためとはいえ、男谷は優しさのかけらも見せない男のはずだ。
 どんな顔してこんなことしてるのよ。
 頭脳がクリアな状態ならば、きっとそんなことは考えなかったろう。男谷は優しくするそぶりは見せても、そのあとで一段と手厳しい言葉を放つ男だ。警戒してしすぎるということはない。普段なら辿りつかない思考は、薄く瞳を開けるという行動を万里子に取らせた。
「――ぁ、」
 半ば曇った、意識も光も中途半端に宿った万里子の瞳が捉えたのは、
「おたに、さん?」
 指先よりも優しい微笑。
 いとしい、いとしい、と。
 ただそれだけを伝えるためだけに放たれる視線。
 男谷がこれまで、そんなまなざしをしたことは一度とてない。
 けれどどこかで、そんな視線を見たことがあるような気はする。
 それは遠い遠い昔、寡黙な温かい少年の――
「どうしました? 万里子さん」
 指先が止まる。手のひらがおりてきて、万里子の頭を優しく包んだ。
「ほんとに、おたにさん?」
 きっと嘘なのだと思った。
 男谷が自分に優しくしてくれるはずがない。彼はいつも、万里子を見ているようで、その実どこかズれた遠いところを見ている。だからこんなに優しい男谷がいるはずない。だから問うた。
 すると彼は、微笑した顔をさらにほころばせ――しかし苦いものをにじませて、万里子の髪をくしゃくしゃにする。
「あなたがそう思うのなら、僕はずっと男谷マモルですよ」
「……そう」
 本物ともニセモノともとれる答えは、いつもの飄々とした男谷らしい。きっとこの優しさも、つかもうとすればどこかへ隠してしまうのだろう。だったらせめて、まなざしを焼きつけて眠りたい。
「悪い夢でも見たのですか?」
「ううん」
 かむりをふって瞼を閉じる。男谷はさらに問おうとせずに、もう一度髪を梳き始めた。
 変わらない優しい手つきは、今度はどこかせつない。沈黙と体温が再度、彼女を眠りに誘った。

2010.07.09up