012:まだまだ甘いよ

『オレにとって、彼女は光さ。なくては世界が闇に包まれてしまう。何も見えないよ。彼女のオニキスのような瞳に見つめられるだけで、もうなにもいらないんだ。君はどうだっていうんだ?』
『僕は……僕は、彼女を、愛してる』
『ハッ! それだけしか言えないだなんて、君の愛も軽いな』
『ちっ、違う!』


「あっ……ま。なにこの甘さ。毛穴から砂糖噴きそう」

 観客席で、千里万里子はひとりごちる。
 例によって例のごとく、彼女は代役専門役者兼舞台泥棒の七色いんこの舞台を見張っていた。
 今回の舞台はテレビで高視聴率をとったトレンディドラマを舞台化したものらしく、糖度100パーセントの台詞が役者の間で飛び交っている。
 ストーリーは単純。ひとりの女を二人の男が取り合うというもの。
 いまどき王道すぎる気もするが、逆にそのこてっこてな展開が受けたらしい。
 万里子にとっては、拷問と変わりはしないのだが。
 見た目が洗練されていて会話も洒脱な男と、誠実一筋のどことなく冴えない男が舞台では口論を戦わせている。

 ――いんこの役はきっと、軽薄な男なんでしょうね。

 誠実な男は、言葉ではおされぎみだ。その姿がいつもいんこに言い負かされる自分と重なって、知らぬうちに拳を握っていた。

 ――いんこなんかに負けてんじゃないわよ! もっとしっかりしなさい!

 ――ほら、そこで口ごもるな! いっそのこと連れて逃げちゃいなさいよ!

 ――やった! あの軽薄男を黙らしたわ!

 パン! と膝を打つ。隣の小田原刑事にじろりと睨まれて我に返った。
 ここには仕事で来ているのだ。舞台に夢中になってはいけない。
 いつもはそんなことはないのだが、ついつい純朴な男の演技に視線を吸いこまれてしまった。
「千里殿、もうすぐ終わりですよ」
「ごめん。気を引きしめるわ」
 いんこは今日は不調なのかしら、と思う。
 純朴な男に比べると、誠実な男の演技のほうが光って見える。
 たまにはそんなこともあるだろうと、万里子は気にするのをやめた。


「待ちなさいいんこ! 今日こそは捕まえてやるんだから」
「まーまー、刑事さん。そんなに怒ると血圧あがっちゃうよ」
「うるさい!」

 結論から言うと、例によって例のごとく、いんこは監視の目をかいくぐって盗みをやってのけた。
 軽薄男にあんなにも注意していたのに! と万里子は歯噛みするのを抑えられない。
 その悔しさを燃料にして、声もかれよと叫びながらいんこを追いかけていた。
 だがいんこのほうは今日も今日とて飄々と逃げて、尻尾をつかませない。
 はた、と振り向いて
「そうそう刑事さん」
 にやりと口の端をつりあげる。
「本日はひっじょーに熱心なご観覧ありがとうございました! 視線が熱くて火傷するかと思っちゃったね」
「どういう……」
「オレの役、わりと無口な方だって、気づいてなかった?」
「え?」
 チャシャ猫のような笑いを残して、いんこは駆けてゆく。
 言葉の意味が理解できなくて立ち止まったが、すぐに頬が引きつった。
「刑事さんもまだまだ甘いよねー」
 声が遠くなる。距離に比例するかのように、彼女の頬は赤みを増した。
「こんっの……ばかやくしゃ――――っ!」
 ヤケクソの叫び声は、その後追いついた小田原刑事にたしなめられることとなった。

2010.07.09up