――この手は誰のものだろう。
やわらかなオレンジ色の照明。視界を曇らせる湯気。羊水のように身を包む湯。
海外での代役を終えて帰国した彼が一番にしたことは、久々にユニットバスではない風呂に入ることだった。時差ぼけした頭と体に鞭打って、なんとか風呂を用意したあとは、何も考えずに湯船で全身を弛緩させていた。ずっと肩に乗っていた疲労が溶かされて、筋肉も思考もとろとろのスープになってしまいそうだった。
玉ザブローと一緒に入ったら、人間と犬のスープになるのだろうか、なんてバカなことを考えるあたり、相当疲れているらしい。スケジュールが厳しかったのもあるのだろう。代役は二件だったが、上演期間が重なっていたのだ。午前の舞台は国立劇場で息子を失う悲劇の王を演じ、午後の上演は大ホールで都会人のお洒落な恋愛劇を演じるなんて二重生活が、二週間も続けば誰だってくたくたになるだろう。ホテルの朝食に必ずついていたコンソメスープのキャベツを思いだして、彼は苦笑いを浮かべた。自分の状態としては、キャベツと大差はないだろう。大根でないところがせめてもの救いか。
アジトの湯船はあまり広くはない。平均的な成人男性が体育座りをして、ようやく全身がおさまる程度だ。例にもれず、彼も湯船においては体育座りを強制される。膝小僧の上に置いた両手を見て、ぼんやりと彼は思う。
この手は誰のものだろう。
十九時間前、千秋楽を演じた時には、この手は失恋から立ち直ろうとする青年の涙をぬぐっていた。
その三時間前には、自らの王国を継がせるはずだった愛しい王子の死に顔を抱えていた。
その二時間と二週間前には、外国人に代役が勤まるかと危ぶむ監督に、代役役者七色いんこの名刺を渡していた。
その六時間と三日前には、主張のお土産は何がいいですか? と女刑事に問いながら手を握ろうとして、ぴしゃりとはたかれていた。
その一ヶ月前には、女刑事に手錠をかまされそうになって、必死に逃げていた。
それより何年も何年も前には、クラスメイトの女の子の手をとろうかとるまいか悩んで、空中でもやもや開いたり閉じたりしていた。
この手は誰のものだろう。
水の抵抗を何トンもの重りのように感じながら、彼はオレンジ色の照明に手のひらをかざす。目のあたりに影が落ちて、手の甲が暗く見える。表面を這う静脈は、青と言うよりは紺色に見えた。この中を流れているはずの血液は、変わらずにこの身を流れているのに、外側の自分だけが、コロコロと変わっている。
彼は目もとに手をかぶせて、そっと目を閉じた。小さな暗闇ができあがる。
この手を、体を、いったい誰のものと言えばいい。
本来ならば、この体につけられた名は、たったひとつのはずだった。いくばくかの祈りがあっただろう。愛や希望や夢といった、この世に溢れる善い感情の類いをこめて、つけられた名だっただろう。拒絶したのは自分だ。新しい名をもらい、それを自分であるとした。それこそが自らを表すものとしてすがりついた。それから多くの名を演じ、いつしかどの名がもっとも長く使っているのかさえわからなくなった。
だからもう、この身につけられた名が、彼にはよくわからない。ただ、かろうじて、何年も何年も前の女の子が呼んでくれるから、自分なんてものを構成できている。彼女が呼ぶから「七色いんこ」でいられる。
そろそろあがるべきだろう、と彼は目蓋を持ちあげだ。おおっていた手をはずして、オレンジ色の光に目を細める。結局のところ、こんなことを考えるほど疲れているのは、彼女と離れていたからなのだ。
苦笑いをして彼は立ちあがった。ひと眠りしたら、いの一番に電話をかけよう。男谷マモルが土産を持ってきたと告げてもいいし、七色いんこがからかい電話をよこすのでもいい。とにかく彼女の声を聞きたい。
苦笑とも微笑とも言えない曖昧な笑みを口端によせて、彼は風呂からあがる。湯船にざばりと波がたち、排水溝へ流れていった。
湯は、すっかり冷えていた。
了