小麦の穂波と果樹園の緑が午後の日射しに洗われている。
ふわりと頬をくすぐる風には緑の香りが満ちていて、思わず深呼吸したくなるだろう。
彼らの新しい家は、緑に恵まれた土地に建っていた。
風光明媚と言えば聞こえはいいだろう。が、実際のところは、土地持ちの百姓でなければ生活が苦しい田舎でしかない。産業もなければ、文化の灯りもない。芸術の都からはるかに遠いこの地では、地縁も血縁もない母子の暮らし向きが良いものであるはずがなかった。仕事はほとんどなく、稀にあったとしても苦しい上に実りは少ない。わずかにあったたくわえも、日に日に減っていくばかりだった。
そんなある日、母に歓喜の声をあげさせたのは、一通の手紙――小切手だった。
「ラウール! ラウール!!」
彼女は愛しい息子を呼びたてる。何事かと顔を出した彼を抱きしめて、アンリエッタは耳の上にキスを落とした。
「ラウール、どうやら私たち、今年の冬はあたたかく過ごせそうよ。ほら、見て頂戴」
ひびわれの目立つ母の手には、千フランの小切手が二枚、のせられていた。
「封筒にはこれしか入っていなかったのだけど――きっと奥様だわ。私たちがここにいるのを御存じなのは、彼女か神様しかいないもの。なんて――なんてお優しいのかしら」
そう言った母の声は震えていて、目尻には透明なものが光っていた。お礼の手紙を出さなくちゃ、と呟く母に、息子――ラウールは黒い瞳をむけた。
「本当に、奥様かな」
「あら、違うっていうの?」
「うん……。ぼくは、奥様じゃなくて、誰か違う他の人なんじゃないかって思う」
「なら、いったいだあれ?」
邪気のないアンリエッタの問いかけに、ラウールは言葉に詰まる。
自分たちを追いだした奥様がそんな慈愛を持つ人間なんかではないだろう。そう言いきれる程度には、ラウールは世間を知っていた。けれど母親相手にうまく真実を告げられるほど大人なわけでもなかった。
深くうつむいて――それからぱっと目を光らせて彼は母を見あげた。
「ギゾクってやつだよ! 修身の授業で習ったんだ! 金持ちの家から盗んだお金を、貧しい人たちに配る泥棒がいるんだって! きっとそいつがくれたんだ!」
両手を握りしめて話すラウールに、アンリエッタは優しい苦笑する。同じ年頃の子と比べると、だいぶ大人びたところのある息子だが、年相応なところもちゃんとあるらしい。
「あらあら。ラウールはギゾクに憧れてるの? でも盗みはいけないことよ」
アンリエッタは息子の頭を撫でて、自分たちがこの地へやってくることになった原因を苦く思い返す。
手紙が無いということは、犯人はまだ見つかっていないのだろう。それでもこんな贈り物をしてくれる奥様は素晴らしい人だ。
「びんせんはまだあったかしら……? それに切手も買わなくてはね」
でも! と、くいさがるラウールをいなして、彼女は立ちあがり、小切手を大切な物入れにしまう。インクはまだあったかしらと細々した考えのうちに、ラウールの言葉はまぎれてしまった。
「ぼく、本当に、奥様からじゃないと思うよ」
了