017:息苦しい。生き苦しい。苦しい。

 しくじったと、思った時には遅かった。
 何を言っているのかわからない怒声が大音量で鼓膜を直撃する。大方のところ、クソガキとか泥棒とか、ひねりのない罵りだろう。それよりも問題は、後頭部めがけて飛んできた平皿だった。この酒場で使っていたのは確か、土を焼いた重たい皿、と思う刹那、衝撃。痛みよりも前に意識がとびそうになる。
「ぁが、」
 濁りきった音が喉から漏れる。つめていた息はそのひと呼吸でなくなってしまった。倒れかける体をテーブルに捕まって支えようとしたが、指先はむなしく空をかく。平皿が落ちて割れる音と、自分が地面にぶつかる音はどちらが先に聞こえたのか。
 熱い。痛い。後頭部は灼熱の痛みでもって、身体の危機を訴える。痛いと泣きわめくだけで何もかもが解決するのなら、どんなに情けなく泣いたってかまわない。だが現実に待っているのは容赦ない追い討ちのみだ。座っていた客が――そのふところから財布を頂戴しようとして、こんな羽目になったのだが――ぶっとい足を腹にくいこませる。酔っぱらいの蹴など、普段なら簡単に避けられるのだが、今日は最初の一打が強烈すぎた。起きあがろうと頭を動かした瞬間に、脳をわしづかみにするような痛みと、世界がひっくりかえるようなめまいに襲われた。酔った男の足は胃のあたりにヒットしたが、幸いなことに吐き出すような中身は入っていない。少しこみあげた汁が酸っぱいくらいだ。
 こうなっては、もうできることなどたかがしれている。四肢を丸めて相手が満足するまで耐えるのだ。痛みには慣れている。男の罵倒も、周りの客の野次もよく聞こえない。聞こえるのは体の中を流れる血液の音。耳の後ろに心臓があるのではないかというくらい、どくどくと鳴る音は、こんな暴力のシーンにはお馴染みのものだった。
 しくじったのはスリの手際だけじゃなかったようだ。
 酔っぱらいは注意が散漫になる。だから財布をくすねようとしたんだが、選定を誤ったらしい。でかい図体をしている割りには警戒心は人並み以上だったようだ。ただし、器は小さいんだろう。てめえの半分くらいしかないガキが抵抗もできずに床で丸まってるってのに、なぶる足は止まらない。粘着質な野郎だ。
「許……し」
「うるせぇぞクソガキ! 誰が許すと思ってる!」
 哀れっぽく見あげてみても、鼻っぱしらに爪先を入れられるだけだった。喉の奥が鉄臭くなる。出血の予感。
 ガキがこれだけ暴行されてるってのに、ギャラリーときたら制止しようともせずに酒を飲んでいる。気がすむまでやらせておけということだろう。無駄なことをした。泣き落としの効果がないのならば、はじめから耐えておけばよかった。
 わき腹を踏まれる。柔らかい内臓のつまった場所に、容赦なく体重をかけられる。
「うっ、あああっ……」
「ふん、この野郎、思い知ったか」
 ぐりぐりと足の裏をめりこませて、男は俺の腹を蹴り飛ばした。ボロきれのように舞った体がバウンドして、受け身も取れずに滑っていく。
「ぐっ、ぁ……」
 砂ぼこりが目に入って涙がにじむ。ぼやけた視界を刺すように光が降ってきたから、きっと外に蹴りだされたのだろう。逃げやすいように、出口近くの客を狙ったのは俺だが、こんなふうに出る羽目になるとは。
 店の中からがなり声がいくつか飛んでくる。テンプレートでも読みあげてるんじゃないかってくらいお決まりの文句は、もう痛くも痒くもない。
 世の中には、心のキズ、なんて馬鹿なことを言う大馬鹿がいるそうだが、俺に言わせりゃきれいごと以外のなにもんでもない。痛みなんて面倒なもんを感じるのは、体だけだ。体の痛みを感じるだけでも苦しいのに、心なんてもんがケガをするなら、うっとうしくて仕方がない。だいたいどうやって治すっていうんだ。
 体の痛みで燃えるような息を吐く。腹やら胸やら蹴られたせいで、喉が焼けているようだった。店の中の男たちは、俺が動かないのを見ると、元の席に戻っていった。
 店の人間は面倒を避けてか、何も言ってこない。が、野郎どもがハケたらどこかへ行けと怒鳴ってくるだろう。おちおち倒れてもいられない。
 息を吸うと、気管がチリチリと痛んだ。このぶんだと、明日までろくに動けないかもしれない。稼ぎは無し、腹は空っぽ。世の中ってやつは、なかなか厳しくできていやがる。
「あぁ」
 憎いなぁ。
 痛みで余計なもんを削ぎおとされた思考はシンプルに世界を怨む。息をするのさえ苦しいこの世界を、壊しちまってはいけないんだろうか。一個の村を潰した結果、ガキ一匹、満足に食えないような世界だ。全部消してしまって、なにが悪い?
「あぁ」
 そうだ、早くファラオを殺しに行こう。そのための力を、俺は手に入れなければならない。
 土をつかみ、力の入らない足を叱咤して立ちあがる。前を見るなんてことはできなかったが、なんとか進むことはできそうだった。
 這いずるように、俺は一歩足を出した。その先が血まみれの惨劇につながることを信じて、歩きだす。

2012.03.03up