――私はなにも失っていない。
ドレファスの心のなかでつぶやかれた言葉は、ついぞ声になることはなかった。彼は書をめくる手を止め、窓の外を見やる。細かな文字を追っていた目に、青空はひどくすがすがしかった。かすかに届く剣戟の鋭い音と太い声は、聖騎士たちの鍛錬だろう。聖騎士長たるドレファスに与えられた部屋は、騎士の詰め所のすぐそばにある。王城にも程近いこの部屋からは、城の屋根のとがった先端がよく見えた。王が病床に臥せっているとされているのは、眺めのよい最上階だ。探せばここからでも見えるだろう。
視線が左右にさまよいかけるのを、ドレファスは苦い思いで制止する。左手で両目を覆い、瞳をかりそめの暗がりに浸した。
現在、リオネスの国政は二大聖騎士長の手に委ねられている。リオネス国王が病に臥せり、まだ若い三人の姫君たちにはあまりにも荷が勝ちすぎるという判断からだ。聖騎士長はかたや、冷静さを失ったことのない山羊髭のヘンドリクセン。かたや、弁舌豊かな長髪のドレファス。見識が広く、実務経験も豊富な二人に反対意見が出るはずもなく、若きころからの戦友だという彼らの手によって、王国は聖戦への準備を着々と進めている。
――と、いうことになっている。
実際に国王がどのような状態になっているのかを把握している者は少ない。ドレファスはその数少ない人物の一人であり、また、事態を引き起こした原因の一人でもあった。
事態を知っている第三王女がなにやら駆けまわっているようだが、城から出れば一介の少女にすぎない。この事態は聖騎士長という立場にある男二人が知恵を凝らした策謀なのだ。少女一人がなにをしたって、動き出した歯車を今更止められまい。さらに言えば、バイロンの町で見つかったという第三王女を追いかけて、第二王女ベロニカと息子のグリアモールがバウゼルに向かっている。少女のささやかな冒険もそのうち終わるだろう。
だから現状、ドレファスを悩ますものなどなにひとつないはずだった。民からの反感は買っているようだが、徴兵は順調に進んでいる。七つの大罪たちもひとりひとりと姿をあらわしはじめているようだ。集まった罪人たちを、国の全戦力をあげて叩きつぶし、勝利の栄光を歴史に刻みつける。それが、ドレファスの胸に燃える野望であった。
たいそうな野望に反して、ドレファスは一人自室で嘆息していた。何度も読んだ書に目を通し、ため息をつき、窓から見える光景に目を細める。何度となくくりかえしている無意味な作業は、十年前、兄のザラトラスが殺されたころから続いている。もし、ため息が埃のように積もるとしたのなら、ドレファスの部屋はとうの昔にため息で満杯になっているだろう。兄を亡くしてから引きこもりがちになったと陰口をたたく者もいるが、耳に入ってもドレファスとしてはさもありなんと思うしかなかった。非難の色が強いとしても、言っていることは事実だ。
ザラトラスが没し、その地位をヘンドリクセンとともに継いで、十年。子供だったグリアモールも、今では立派な青年騎士だ。打ち明けることすら許されない罪を抱えて、長い時間が過ぎた。
胸の底で淀む罪を別にすれば、ドレファスの十年は輝かしいものだった。戦場では華々しく剣をふるい、城内でふるう弁舌は時に聞くものの胸を爽やかに吹きぬけ、時に火を燃えあがらせた。兄、ザラトラスの存命のころこそ、わからなかったものの、彼もまた聖騎士長に十分な実力を持っていた。聖騎士たちの間でドレファスを支持するものは、彼自身の魅力に惹かれている部分が多分にあるだろう。聖騎士のお手本とするに、申し分のない男。その評価は一朝一夕で得られるものではないし、確かに彼は栄光を手に入れいた。
――だから、私はなにも失っていない。
覆っていた手をはずし、ドレファスはゆっくりと息を吐く。積みあげてきたものはたくさんある。戦いでの功績はいちいちあげるまでもないし、法整備や聖騎士の編成で行った改善は、リオネスの戦力を地道に確かなものにしている。慕ってくれる聖騎士たちも、民もいる。戦の凱旋で、道端の子供が「オレも、ドレファスせいきしちょうみたいに、つよくなるんだ!」と大きな声を出していたのを、よく覚えている。後世の歴史家たちがドレファスの一生を書くとしたら、きっと聖騎士の理想的な一生として書くだろう。罪を、胸のうちに沈めとおせるのなら、彼の栄光は語り継がれていく。そのはずだ。だから、彼は何度も己に言い聞かせる。得るものばかりの人生だったと。ドレファスの両手には有形無形の無数の栄誉があり、それは彼を輝かせるものばかりなのだと。
「すべて、必要なことだったのだ。私は、やらなければならなかった」
これでよかったのだと言いきって、ドレファスは口を一文字に結ぶ。書を閉じ、立ちあがった。聖戦にむけ、これからさらに忙しくなるだろう。自省の時間はほどほどにしなければならない。
彼はいままでしてきたように、これまでも堂々と歩かねばならなかった。大きな力を持つ強者として当然のふるまい。自室から出たドレファスの姿に、かげりなどひとつも見られないだろう。威厳ある彼の影を知る者は、彼と同じ罪を抱えて口をつぐんでいる。これまでそうやってきたのだ。これからも同じようにやっていけるだろう。目を覆わんばかりの極彩色の栄光が彼を煌々と照らす。胸を張って歩けばいい。なにも、なにひとつとして、失っていないのだから。
そうしてドレファスは廊下に高らかな靴音を響かせる。
夕刻、愛息グリアモールの死が伝えられることを、彼はまだ知らない。
了