喪失に気づいたのは唐突だった。
スモッグでどんよりとしていることが多いスラム街で、珍しく晴れた日。久方ぶりの空の青を、陽介は目を細めて眺めていた。ビルの谷間からでも、青は青。青空を見つめながら吸う息はいつもより少しだけ新鮮なような気がした。
そういえば、そんな話をモモ子ちゃんとしたっけ。
空気は変わっていないはずなのに、朝の呼吸はやけに清々しい。これは覚醒から覚めきっていない脳が思わせる錯覚なのか、それとも湿気や酸素の比率が昼夜とは違うのか。そんなくだらない――けれどかけがえのない――話を、ある日の朝にした記憶がある。問いを言い終えた陽介に対し、モモ子は笑って、
あの薄桃の唇を柔らかくまろめて、
くすっ、なんて笑い声をもらして、
それで、
そして?
彼女の言葉が思い出せないことに気づいた陽介は戦慄する。美しかった青も、とたんに色を失ったかのようだ。指先が震える。
ふるふると頭をふって、もう一度記憶をたどる。
たしか、冬のことだったと思う。朝の教室で、偶然二人きりになって、たわいない自分の問いかけに彼女は笑って、
笑って、
記憶の糸はそこでふっつりと途切れる。薄桃の唇、その形は克明に覚えているというのに、紡いだ言葉を思い出せない。
まさか、と彼はつぶやく。
毎日思っていた。
夢に見るまで彼女のことを思っていた。
芝居のセリフのように、彼女のことならば何ひとつ漏らさずすべて覚えていると思っていた。
陽介は青空から逃げるように、自らの顔を両手で覆う。絶望した人がよくするように、奈落より深いため息をついた。
自ら作り出した簡素な闇の中に、答えの単語がちらつく。忘却の二文字が、彼の悲哀の名前であった。
青空の下、声なき愁声が一条流れ、やがて儚く消えていった。
了