閉幕、そして逃亡。
舞台を降りた代役役者が現実で演じるのは、スリリングな逃亡劇。あたしたち警察の目をかいくぐり、お宝を優雅な手つきでふところにイン。それから後は、火がついたように駆ける駆ける。あの奇抜な格好を――カツラとマスクが平凡な格好とは言わせまい――やめて、普通の人の変装をされたら、あたしには誰がいんこなのか検討もつかない。藁の中から一本の針を探すようだ、なんて言ったりするけれど、変装したいんこを見つけるのは、藁の中から一本の藁を探すようなものだと思う。
つまり、お手あげということ。
いんこを見失ったあたしは、いつもの喫茶店に向かうことにした。一度警察をまいて、お宝をどこかに隠した後、いんこはほとんどと言っていいほどこの喫茶店に寄る。現逮はできないにしても、せめて一言言ってやりたくて、あたしも喫茶店を訪れることにしていた。
――けれど、今日は予感があった。
カラン、と気持ちよい音をたててドアが開く。まずは店内を軽く見渡して、人が少ないことを確認する。テーブル席が二つ、カウンターが一つ埋まっていた。これならば長居をしても問題ないだろう。そのまま癖で、窓側の席に視線が流れる。いつもの緑色のおかっぱ頭が座っている席には、黒いスーツがなにやらぶつぶつと呟いていた。
「……ったく、いっそ七……んこと……別人の……谷……になってみれば、……ンネなんて、消え……だけどな……」
呟き自体はよく聞こえなかったが、誰の声かは見当がついた。当たってなければいいのに、と神様にお願いしながらその人の名を呼ぶ。
「男谷さん?」
「おや……万里子さん。久しぶりですね」
神様はあたしのお願いを聞かないことにしたらしい。振り向いた黒スーツはにっこり笑ってあたしの名を口にした。
――やっぱり。
そんな予感はしていたのだ。
いんこがいない予感。
今日のいんこはやけに調子が悪かった。喋ってる途中に、あたしにも余計だとわかるセリフを入れたり、関係ないシーンで罵り言葉を吐き捨てたり。本音がどうこうとか言っていたけれど、また妙な病気でも再発させたんだろう、とあたしは睨んでいる。そんな時、いんこは盗みを働かない。演技相応の見返りとやらをもらうに値しないと、自分でも思うのだろう。そして、喫茶店にも来なかったりする。男谷さんがいるとは思わなかったけど、予感があたったことは間違いない。
「僕で残念ですか?」
「あたしがあんたと会って、一度でも笑顔になったことあったかしら?」
「ふふ、今日も手厳しい」
あたしの嫌みも気にせずに、男谷さんはほがらかに笑う。まだ長い煙草を灰皿に押しつけて、どうぞどうぞと向かいの席に手のひらをむけた。
「……勤務中なんですけど」
「いんことはいつもお茶してるようですが?」
「いんこは泥棒ですから。犯罪者の動向を監視するのも立派な職務です」
「やれやれ。まいったな。だけど、警察官にだって休憩は必要ですよ。根をつめてばかりでは倒れてしまう。それに、どうせここにはいんこを探して来たんでしょう?」
「男谷さん、なんか知ってるの!?」
思わず声をあらげるあたしに、男谷さんは優雅な手つきで席を指す。
「情報には対価が必要だと思われませんか?」
学者野郎の笑顔はいつだって憎たらしい。しぶしぶながら腰をおろして、コーヒーを頼む。「いんこの行方、知ってんの?」
「いきなり本題ですか。せっかちだなぁ」
さっさと話をきりあげて、いんこを追いかけたいけれど、そうそう上手くはことを運ばせてくれないらしい。男谷さんはセブンスターを片手に、ライターを出そうとふところに手をさしいれ――どういうわけか、ボロ布を取り出した。
「うわっ! この野郎!!」
まるで火をつかんだみたいに、男谷さんは飛びあがってボロ布を手放す。ボロ布は、サーカスの道化師みたいに一回転してテーブルの上に着地した。男谷さんはひきつった顔でそれを凝視している。左手のセブンスターが小刻みに震えていた。
「ふふふ……そんなところに潜んでいたとはおそれいるね」
こめかみからひとすじ、汗が流れる。ボロ布を放り投げた瞬間のまま、口以外ぴくりとも動かない。
「どうしたの、男谷さん?」
「あっ……ああ、その。だ、大丈夫ですから。大丈夫、大丈夫」
口の端をひくひくさせながら、青白い顔でそんなことを言う人間の何が大丈夫だっていうのだろう。だいたい、最後のほうは自分に言い聞かせるように言っていたではないか。
「そのボロ布がどうかしたの?」
「え? ボロ布? ……あ、ああ! そうですね!! 万里子さんにはそう見えるんですよね!」
「誰が見たってボロ布以外には見えやしないと思うけど……」
投げた時に広がったのか、まんなかがちょこんとふくらんでいた。ただのボロ布以外のなんだというのだろう。穴が空いていて、更にはどこでついたのか見当もつかない汚れが染みこんでいる。男谷さんみたいな男がどうしてこんなものを待っているのかと、首をひねってしまう。
「そのボロ布がどうかしたの?」
「どうもこうも……どう、説明すればいいんでしょうね。ええと……くそっ、黙れこの野郎!」
ダン! とテーブルを叩きつけて、男谷さんはボロ布を怒鳴りつける。
「男谷さん!?」
手の中のセブンスターをぐしゃぐしゃに握りつぶしていた。自分を落ち着けるために、わざとゆっくりした呼吸をしているのが聞こえた。男谷さんらしくもない。
――?
胸のなかにぼとりと違和感のかたまりが落ちてきた。らしくないのはわかりきっているが、それ以外にも何かある。
冷静さをなくした男谷さん。少し乱れた短い黒髪。たらたら流れる顔の汗。手の中で潰れたセブンスター。きっちりとしまったネクタイ。糊のきいてそうな白いワイシャツ。間違い探しをするように、男谷さんを見る。
「はは、失礼。少し取り乱してしまったようですね。こんなものが出てくるとは思わなくて。捨ててしまいましょう」
愛想笑いとも呼べないほどひきつった笑顔を張りつけて、男谷さんはタバコの箱に手をのばす。ぐしゃぐしゃに潰されたタバコを取り出すのは難しいらしく、震える右手はずいぶんととまどっていた。七つの星が何度も揺れる。そのたびに、胸に落ちた違和感がもぞもぞとみじろいだ。かたまりは徐々にはっきりした形に整ってくる。
――男谷さんが吸う銘柄って、セブンスターだった?
ライターをカチリと鳴らして、タバコに火をつける。紫煙が薄く広がった。吸いこむ空気に漂う香りは、よく知ったものだったが、マナーの特訓の時にかいだものではない。あたしは拳を握りしめる。
そもそも、あたしの周りでセブンスターを吸う人間はごくわずかだ。数人の同僚と、ある男。素顔を見せたことのないその男は変装の名人で、けれども今日は、調子が悪いときている。
そう、いんこは調子が悪いのだ。例えば、別人に変装しても、不調があからさまに表れるくらいに――
「男谷さん」
あたしはセブンスターを握る男に冷ややかな視線を刺す。
「あなた、本当に男谷さん?」
「――っ!?」
男の肩がびくりと震える。タバコを吸う息が止まって、震えたままの指先がタバコをつかむ。つかんだまま、くわえたタバコを離さずに動かずにいる。
唇が動いたのが奇跡と思えるくらいだった。視線さえ動かさずに、彼は問う。
「それは、どういう意味ですか」
「どういう意味って、そのままの意味よ。男谷さんはいつもセブンスターなんて吸わないし、もうちょっと落ち着いてるわよ。……今日くらいは演技をやめたほうが良かったんじゃない? 泥棒役者さん」
からかうように唇の端を吊りあげる。いつもいつも騙されてばかりではないことを教えてやらなくてはならない。
「……なるほど」
彼はタバコを口から離した。火のついたそれを指の間にはさんだまま、やさぐれたアル中がやるように、両腕をひろげてソファーにもたれかかる。頭をがくんと仰向けに落として、天井を見つめるかと思うと、大音声で笑い出した。
「ッハハハハハハハハハ! これはまた、たいそうな推理だね刑事さん! タバコの銘柄ぐらいでよく気づいたもんだ。賞賛に値するね。この七色いんこがど素人の刑事さんに見やぶられるだなんて、思ってもみなかったよ」
「やっぱり!」
角度のせいで、男がどんな顔をしているのかはわからなかった。変装を見破ったのは初めてのことだった。ぐっと手を握って立ちあがる。テーブルに膝があたったのも気にせずに、男の顔を見下ろす。仏頂面の、男谷さんのにしか見えない顔と目が合った。変装技術だけはいつもと同じらしい。
ど素人のあたしに見やぶられるくらいなんだから、泥棒なんてやめなさい。と、とどめのセリフでもつきつきけてやろうと、口を開くと、男がしらっと言葉をつむいだ。
「なんてやれば、ご満足ですか?」
「へ?」
彼は温度の無い目であたしを鋭く睨む。崩していた姿勢をきちんと正して、あたしを見上げた。その顔に優しい温度なんて無かったし、続く言葉はあたしを思いっきり打ちのめした。
「タバコの銘柄なんて、たまたまいつものが売り切れていただけですよ。角の自販機なんですけど、セブンスターとホープしか残っていなくて。なんなら見に行きますか? ご案内いたしますよ」
「えっと」
「いんこの行方が気になるのはわかりますがね、なにも僕をいんこに仕立てあげなくったっていいんじゃないですか?」
男谷さんの目は冷たい。三ヶ月の訓練で学んだことだけど、彼は怒った時、声を荒げたり苛立ちを表に出したりはしない。ただ能面のような顔で、淡々と激昂する。瞳の奥に溶けない氷を宿しながら。
けれど、それはどこか、痛々しく見える。
今だってそうだ。
刺々しい気持ちを身の内に閉ざして、怒声を奥歯で噛み殺して、ギリギリのラインで己を保っているような。いっそ怒鳴りつけてしまえば楽だろうに、彼の中の何かが、それを許可しない。
ひどく冷静な、手負いの獣。
それが、あたしのなかの、怒った時の男谷さんのイメージだった。
「じゃ、じゃあ、正真正銘本物の男谷さん?」
「あたりまえです」
やれやれ、と男谷さんは肩をすくめる。勢いを失ったあたしは再び腰を落ちつけてうなだれた。
「ごめんなさい……」
手負いの獣はセブンスターを深く吸うだけだった。視線もあたしのほうではなく、窓の外へ向けられている。
テーブルの上のボロ布はいつの間にか姿を消していた。ゴミ箱にでも捨てたのだろうか。
男谷さんは何もしゃべらない。どうしてそこまで怒るのか不可解でもあったけれど、あたしが男谷さんの逆鱗に触れてしまったことはわかった。あたしは、いんこと男谷さんの間にある関係を知っているわけではない。男谷さんがいんこをどう思っているのか、いんこが男谷さんをどう思っているのか。聞いたことはあるけれど、うまくはぐらかされてばっかりだった。けれど、いんこはともかく男谷さんまでもがはぐらかすということは、二人の関係を知られたくないと思っているのだろう。そこにはあたしでは踏みこめないような事情があるのだろう。
「あの、」
いたたまれなくなって顔をあげると、男谷さんは無言でタバコを吸殻に押しつけた。そのまま伝票をつかんで立ちあがる。
男谷さんの目があたしを見つめる。
「すみません、用事を思い出しました」
嘘だろう。
「呼び止めたのは僕ですし、支払いは僕が持ちます。万里子さんはお気になさらずに。お仕事中、失礼しました」
嘘を嘘と指摘させる暇も与えないまま、彼はレジへと歩み去る。呼んだってきっとふりむきもしないに違いない。立つこともできないまま、あたしは男谷さんの背中を見つめていた。パリッとしたスーツの、隙のない後姿。それが淋しく見えるのはきっと、あたしが彼を傷つけたからだろう。あたしを見つめた男谷さんは、どうしようもなく傷ついた顔をしていた。
了