029:泣けない鎧

 コンタクトレンズをはめている時に泣いてはいけない。
 どうしてだか僕は、そんな思いこみをしていた。
 涙でレンズが落ちてしまうとか、瞳の間に曇りができるとか、そういう無知故の誤解のたぐいに端を発していたんだろう。
 だから長い間、僕にとってコンタクトレンズをはめることは、泣かないと覚悟するのと同義だった。
 今はもう、そんなことないって知っているけど、身についた習慣というものは精神肉体関わらずなかなか抜けないもので、僕はコンタクトレンズをはめている間、泣けなくなってしまった。

 僕、こと、男谷マモルは、誕生して以来泣いたことがない。

 揚げ足取りな性格の人は、この一文で口を尖らせるかもしれない。人間は泣きながら産まれてくるのだ。泣いたことのない人間なんていない、と。
 だけどそれは間違いだ。男谷マモルとは僕が作りだした架空の人物であり、彼に子供時代の物語はあれど、彼の子供時代は存在しない。語る過去はすべて嘘であり、その実体は――虚像である。

「まーた難しい顔して。いったいいつもなに考えてんの?」
 リビングでグラスを片手にぼうっとしていると、後ろからヤジがとんできた。
「いえ、別に語るべきようなことは何も。……何かご用ですか? 万里子さん」
「これ、終わったわよ」
 口をへの字に曲げて渡してきたのはマナーのチェックテストだった。賓国の王女のボディーガードを勤めるべく、彼女は努力を続けている。やる気はとんでもなく低いけれど。
「お疲れさまです。採点している間、休んでいてくださって結構ですよ」
「言われなくても!」
 そう言うがいなや万里子は冷蔵庫に顔をつっこんだ。出てきた頭からコンビニのプリンがはえている。カップの端をくわえているらしい。プリンは危なっかしく揺れていた。
「万里子さん」
「ひゃによ。ひゅうへいひゅーくりゃいしゅきにしゃせなしゃいよ」
 何よ。休憩中くらい好きにさせなさいよ。
 と、言いたいらしい。文句は穏やかだが、視線は殺気が混じっている。放っておいたほうがよさそうだ。
 僕はため息をついて紙面に集中することにした。


 ――幼い頃の僕にとって、演技は唯一の武器であり鎧だった。傷つきやすい心を多種多様の変装で隠し、内心を悟られないようにわかりやすい表情を顔に張りつける。演技をしている間は、真実も嘘も価値をなくす。それらしく見えれば、それが本当のことになる。頬を流れる目薬も、本物に見える演技をすれば、涙と同じ意味を持つ。
 僕にとって男谷マモルとは、泣く演技を必要としない鎧だった。つまり泣かない男であり――泣けない男であるということ。
 鉄面皮と罵られたことも何度かある。主にそこでプリンをくわえている一人の女性からではあるが。彼女がどんなに僕の心を揺さぶる人だとしても、男谷マモルは動じない。だって、彼はそういう人間なのだから。
 七色いんこが極端に戯化されたキャラクターであるのと同様に、男谷マモルも戯化されている。泣かない男という鎧。ある意味で僕は、鎧に閉じこめられているのかもしれない。演技ではなく、心から泣いたのはもう何年前のことになるのだろう。思い出せない。
「男谷さんって、意外にボケッとしてる時、多いわよね」
「うわっ!?」
 鋭い声と一緒に、首筋に何か冷たいものが押しつけられる。予想だにしなかった攻撃に、僕は思わず男谷マモルらしからぬ奇声をあげてしまった。失態をとり戻そうとふりかえると、コンビニプリンを片方に、万里子さんが意地の悪い笑顔を浮かべていた。
「なにするんですか……」
「スキあり、一本! ってところじゃない? ボディーガードは一種の油断が命取り。その教官がこれじゃあ、先が思いやられるわ! って、思わない?」
「思いませんね。僕の仕事は貴女にマナーを教えることだ」
 仏頂面で答えてみれば、女刑事は頬を膨らます。僕がその気になればSPの教官だろうが軍隊の教官だろうが、どんな教官にだってなれるだろうが、それは男谷マモルが演じる役柄ではない。
「ちぇ、つまんないの」
「つまらなくて結構」
 頬を膨らます彼女から、首筋を冷やした正体――よく冷えたコーヒーを受けとる。そういえばグラスのアイスコーヒーは飲み干してしまったんだっけ。そういう気配りができるようになっただけ、僕の努力も実ったのかもしれない。
「ま、いっか。男谷さんにも人間臭いとこがあるってわかったし」
 くすっと笑って万里子さんは踵をくるっと返した。綺麗なフォームのターンと共に、おろした髪がふわりとひるがえる。
「人間臭いところ……って、ああ、さっきの?」
「なかなか聞けない声聞いちゃった! 男谷さんだっていつもいつもずうっとオルウェイズ紳士ってわけじゃないのね! ふふーんだ! これからはあたしにいつもいつも延々と淑女でいろなんて言わせないんだから」
「僕がいつそんなことを言いましたか……」
 呆れて肩を落とすジェスチャーをしてみても、万里子さんの上機嫌に水を差すことにはならなかった。笑顔のままテーブルにつき、プリンのフタをはぎ取っている。
「人間臭い、……ねぇ」
 僕は彼女が口にした、男谷マモルに不似合いな形容詞をなぞってみる。
 人間が演じている以上、完璧は不可能だ。他人になりすますことができても、どこかに地が表れてしまうのかもしれない。彼女は天性の勘で、それを暴こうとしたのだろうか?
「ま、泣かないんですけどね」
 泣かない鎧。泣けない男。決定的に涙が欠けた男。
 それが男谷マモルの本質で、演じられるために作られた人格であるところの欠損だ。
 渋い笑みが顔に広がる。それが男谷マモルのものなのか、あるいは僕のものなのか。それがわからない程度には、僕と泣けない鎧は癒着していた。

2010.11.24up