嘘を吐くのは、自傷に似ている。
「刑事さん、うぬぼれるのはよしたほうがいいぜ? 全世界の男があんたの虜ってわけじゃあないんだから」
嘲りをまじえ、見下すように最愛の人を嗤う。これは嘘。真っ赤な大嘘。
いきさつは忘れてしまったけれど、仮面をかぶったぼくと何もかも忘れてしまった彼女は今現在、喫茶店でひどい口論をしている。罵倒を重ね、男どうしだったら殴り合いに発展しかねないほど、互いをけなしあっていた。
彼女が何やら反論し出すけど、饒舌な仮面は非の打ちどころのない嘘を織り出してゆく。
「オレはあんたなんかに捕らわれないし、縛られもしない。オレの世界とあんたの世界はこれっぽちも繋がってないのさ。ただ、刑事さんがオレを追いかけるから、かろうじてすれ違ってるにすぎない。そんなこともわからないのか?」
ぼくの仮面は哄笑する。心にもない言葉で、心にもない感情を作りあげ、心にもない行動をする。
大嘘つきの真っ赤な役者。
役者は他にもたくさんいて、それは全部ぼくがつくりあげた人形だ。
だからぼくは彼らを操ってあげなくてはならない。嘘が綺麗にまわってゆくように。人形にかこまれたぼくが見つけられないように。
彼女の清い目が、仮面を見つめた。
「そんなふうに言うことないじゃない!!」
応対していたのがぼくであれば、きっとその一言で口論は終わったはずだ。今にも雨が降りそうな彼女の瞳はぼくの言葉をことごとく奪ってゆくだろう。
けれど仮面は止まらない。
「ははっ、がっかりさせないでくれよ刑事さん。お涙頂戴なんて、今どきどんな舞台でも失笑ものだぜ? この名優七色いんこを、そんな陳腐な舞台にひきずりこまないでもらおうか」
したたる赤い台詞。僕に降り注ぐ赤い嘘。
血のように苦いその言葉を口にするたび、気づいてしまう。
ぼくはもう、赤い嘘に溺れてしまったのだと。
(おや、今頃気づいたんですか?)
彼女に顔を知られているもう一人の役者が、慇懃無礼にほくそえむ。もっとも、笑んだとわかるのはぼくが彼の造り手だからであって、実際の彼は――役者の名は男谷というのだけれど――能面のように冷やかな表情をしていた。彼は嘘に溺れたぼくを見おろしているだけで、けして手を伸ばそうとはしない。
(いいえ、違いますね。気づかないふりをしていただけでしょう? 確かに鍬潟陽介は朝霞モモ子を愛してる。けれど鍬潟陽介が鍬潟陽介である限り、朝霞モモ子が千里万里子である限り、彼女を愛せるのは、僕しかいない。そんなことはわかりきっているはずなのに、何を勘違いしていたのやら)
二つ目の仮面は今度こそ、その顔に笑みを浮かべた。
(あなたは嘘に溺れていればいい。鍬潟陽介なんて、今の彼女には必要ないんですよ。繰り手は繰り手らしく、ずっと舞台裏に隠れていてください。人形劇に必要なのはあくまで人形だけなんですから)
目をそむけている真実をわざわざ告げにくるなんて、よくそこまで皮肉な性格になれたものだ。
そういうふうに造ったのはぼくだけど、流石に嫌気がさしてくる。
――うるさいな。今はいんこの出番なんだ。人形を自称するなら、フライングは重大なミスと知りなよ。
耳にまとわりつく嫌味な言葉をかき消すように、ぼくは強く頭をふる。
目の前にいる最愛の彼女は仮面の唐突な沈黙に戸惑ったのか、瞳をことさら丸くしていんこの顔を注視している。
「いん……」
何か言いかけて、けれど打ち消してしまった。口の曖昧な開閉が、彼女を酷く弱気に演出していた。
だがそれも仕方ないことだろう。仮面の言葉は酷すぎる。いつも強気な彼女だが、言葉での攻防には慣れていない。それは二人目の役者の時に知ったことだった。
「わかったなら、さっさと帰ってくれないか。オレだって暇じゃないんでね。それに、オレのように善良な一般市民の相手をするのは、税金泥棒って言わないのかい、刑事さん?」
あんたの嫌いな泥棒だぜ? と更に嫌味を加えてダメ押しをする。この仮面は、彼女を傷つける言葉しか吐けなくなってしまったのだろうか。だとしたら、これはきっと悲劇だ。ぼくは彼女を守るために滑稽な人形劇を演じているというのに。一体なにを間違えて、こんなことになってしまったのだろう。
赤い嘘に溺れた視界からでは、真実なんて見えやしない。
彼女とぼくに必要なのは嘘だ。それが二人を幸福にしないと知っていても、嘘をつき続けるよりほかにすべはない。
ぼくに癒着した仮面は深くため息をつき、彼女は悔しそうに唇をかみしめた。
そして、薄くにじんだ瞳で仮面を鋭く睨みつける。
「このっ……ウソツキ役者!!」
彼女にとって、その単語は深刻な意味を持ちえず、単に捨てゼリフとして選ばれた曖昧な抽象の羅列だろう。だが図らずも、彼女の罵倒は正鵠を射た。あまりに正確な言葉の矢で貫かれた仮面とぼくは、指の先、髪の一本さえ動かせずに硬直してしまう。
それをどう受け取ったのか。彼女は顔を真っ赤にして、喫茶店から走り去っていった。頬に透明な雫が零れていたように見えたのは錯覚ではないだろう。店員と客たちの視線が、先ほどよりさらに痛くなっている。
大勢の観客を前に、しかしぼくは、立ち尽くしたままどんなリアクションを取ることもできなかった。
……ウソツキ役者。
ぼくを――いや、ぼくとぼくの人形たちを形容するにはとんでもなくぴったりな単語。
やはり彼女は彼女だった。
以前ぼくを演劇界に導いたように、彼女は常にぼくを正しく導いてくれる。
「なら、さ」
葉から落ちる露のように、口の端から言葉が零れる。だが零れた声は、露などとは比較にならないくらいかすれていた。ずっと潰されていたことを主張するかのように、ぼくの本音は酷く薄くなっていた。
「この嘘を、暴いてくれよ……」
本当にかすかな声しか出なかった。この細い声が、名優七色いんこの本当の声だと誰がわかるだろう?
嘘に溺れたぼくにとって、それは水底からたちのぼる気泡と同じだった。
全身で助けを求めているのに、外界にもたらす影響はほんの少しもない。
早く気づいて。
誰か気づいて。
君が、気づいて。
この赤い嘘から、救い出してください。
了