手を伸ばせば、失われるもの。
たとえば、蜘蛛の巣に輝く朝露の輝き。
たとえば、砂の上に波打った風の軌跡。
たとえば、隣で眠る君の安らかな横顔。
「ったく、無防備すぎやしませんか…」
すぴー。
彼の問答に答えるのはいびきに近い寝息だった。よほど疲れていたのだろう。彼女は、嫌っているはずの彼の肩に頭を預けて、幸せそうな顔だ。
起きた時にそれを言えば、きっとこの世の終わりみたいな顔をして、悪態を吐くに違いない。このことは自分ひとりの胸にしまっておこう、と男谷は結論づけた。彼の胸には多くの重大な秘密が隠されている。だから、これくらいの小さな秘密は負担よりもむしろ喜びをもたらした。
「あのですね、万里子さん。ここがどこだかわかってます? 仮とはいえ、僕の家なんですよ。独り身の男の部屋なんですよ。隣の部屋にはベッドがあるんですよ。二人で入っても、そこそこ余裕があるベッドなんですよ? その意味が、わからない年でもないでしょう……」
ぶつくさとこぼす言葉が、年のいった気難しい親父のようになってしまう。届かない操り言なんて何の意味もないと知っているのに、つい繰り返してしまうのは緊張を紛らわすためだ。ずっとずっと求めていた彼女が、己と同じ場所にいて、同じ空気を吸って、同じ時間を共有している。それだけで、破裂しそうなほどの速さで心臓が脈を刻む。なにかのはずみで吐息が耳朶にでも触れようなら、骨の髄から歓喜で沸きたってしまいそうだ。間抜けな寝息も、彼にとっては極上の音楽。体はガチガチに強張っているのに、心は甘く、とかされてゆく。きっと彼女の肢体も、同じくらい甘いに違いない。
「いや、だめだ。知られたら大変なことになる」
瞳をギュッとつぶって、不埒な考えを打ち消した。滑らかな肌の感触と、無力な小動物のような体温に惑わされているだけなんだ。ここで眠っていらっしゃる女刑事殿は、こう見えて警視庁随一なのだから。一応は学者で通っている男谷マモルが手を出すわけにはいかないし、出したって返り討ちにあうのが関の山だ。
「寝顔だけなら、ただのお嬢さんなんですけどね……」
すべてを眠りに預けて、安心しきった顔は普段の形相とは正反対の印象を与えた。こうして見ると、
十数年前の彼女の面影を宿しているようにも見える。けれど彼女はもう少女なんかではなくて、立派な女性だ。
乾いた唇と、半分開きかけた口が、ひどく、エロティックだった。
震えながら細い指を伸ばした。顎をつまんで、良く見えるよう上にあげる。今、首をひねっても、それを見咎めるのは誰もいない。そして自分の唇が、彼女のものと接触したとしても、それを知る者は誰もいない。二人きリとは、そういうことだ。
息を、呑む。
いくつもの秘密を抱え込んだ身だ。隠し事を一つ増やしたって、そうたいした変わりはあるまい。
舞台の最も盛り上がるシーンでよくやるように、彼はじれったいほどのスピードで、頭をたれた。
――が、
接触の一刹那前で、時が止まった。寝息が彼の睫毛を揺らすけれど、彼はぴくりとも動かない。舞台の闇を吸いっとったような黒瞳で、万里子の顔を凝視する。
「やっぱり、やめておきましょう」
それまでが嘘のように、彼は滑らかな動きでに顔をあげた。生の期限を悟った人々が良く浮かべる、晴れやかなのに苦しそうな笑みをかたちづくる。顎をつまんでいた手をはなして、そのままぎこちなく彼女の頭に置いた。
きっと自分は死んでしまうだろう。己に誓った父への復讐は、半端な覚悟で成し遂げられるものではない。
死を不可避のものとして諦める気はないけれど、冷静な計算は己の陰惨な末路を明々と照らしだしていた。後悔する気はさらさらないし、師匠と同じ道を行くことへの誇りもある。けれど彼が師匠と違うのは、彼女の存在。彼が知らないだけかもしれないが、師匠には毎夜夢に求めるようないとしい人がいなかった。いとしい人は、ただ生きているというだけで、彼を生へと引きとめようとする。その引力に従えば、幸福というご褒美をもらえるだろう。このまま偽りの仮面をつけて、暮らしていこうかと思わせるほど、欲求は強い。
白い天井を見つめる。蛍光灯は無機質に彼らを照らしていた。
「それでは、だめだ」
ふっと、地の声が出る。復讐は決められて、計画は動き出した。ひそやかに、着実に、彼の父を追い詰めるための舞台の準備は整っていく。開演までに時間はかかるけれど、きっと幕は落とされるだろう。その時主役がいなけれぼ、すべてが水泡に帰す。そんなことは、彼のプライドが許さない。
黒い瞳に映った彼女の残像をうち払って、彼は強く唇を噛んだ。偽りの仮面は、あくまで復讐のための手段だ。彼女と己が結ばれるために作りあげたのではない。
仮想現実上にある、男谷と万里子の幸福な虚像を打ち砕く。微笑み合う二人の像は、ガラスが砕けるように粉々になった。
「万里子さん」
無表情を張りつけて、彼女を呼ぶ。声は限りなく低く硬く。
「起きて下さい。こんなところで寝てしまうだなんて、訓練が足りないようですね。今日は休んでくれてかまいませんが、明日からはもっと厳しくします。覚悟してください」
寝ぼけ顔で瞳を開いた彼女に、叩きつけるように言い渡す。彼女がこんな対応を嫌うのは知っている。それでいい。どうか嫌って下さい。自分は彼女を幸福になんてできないのだから。ただ、自分がいたという痕跡を、彼女に刻めればそれでいい。
「えええええ、うっそ、今日のだけでもめちゃくちゃ疲れたのに!! 男谷サンの鬼! 悪魔!」
目をまんまるくして、彼女が叫ぶ。目が覚めたらしい。
「どうとでも言ってくださって構いませんが、スケジュールについていけないのは万里子さんの力不足なだけです。努力するよう、希望します」
「サイッテー」
悔しそうな顔をして歯を噛みしめた後、彼女は立ち上がって自室へ去った。音を立てて閉められたドアに、やっぱり訓練をもっと厳しくしなければ、と思う。
「……僕もそろそろ寝ましょうか」
すっと立ち上がったが、膝に力が入らなくてソファに崩れ落ちた。不自然な姿勢でずっと固まっていたからだろう。支えるためについた手が、彼女が眠っていた場所に触れていた。
ぬくもりが、たださびしかった。
了