045:真っ白なお前を見ていた

「……あ」

 キサラが発した声がセトの鼓膜に届くのと、天から落ちた水滴が砂漠に着地するのと、どちらが早かっただろう。ぽつ、と小さな音をたてて砂にしみていく雨粒は、やがて量を増し豪雨と化すだろう。
「予想していたよりは少し早かったな」
 キサラの後姿を見ながら、セトはひとりごちる。雨季の始まりだ。ここ数日、空気の湿り気が増していたから、数日したら始まるかと思っていた。雲は今日の夕陽を隠し、少し早い闇を運んでくる。薄暗い雨の下は、キサラの白い肌が映える。のばした手の先に、雨が跳ねていずこかへと飛んでいく。
 牢の中ばかりでは良くなかろうと、近くの露台に読んだ矢先のことだった。まさかこんなに早く降りだすとは思っていなかったから、雨を防ぐものなど持ってきているはずもない。
「キサラ」
 風邪でもひかれてもらっては困る。屋内に入ってくるよう促すと、素直に髪をひるがえした。この目を伏せた従順な女の中に、あの白き龍が宿っているなど、誰が想像できるだろうか。
 見たところ、そう濡れているわけでもない。このまま牢に帰してもさしつかえないだろう。側に控えていた兵士たちに指示しようと口を開くがしかし、こぼれた言葉はキサラへ向かった。
「残念だったな」
「え……?」
「外に出るのを楽しみにしていたのだろう? それくらいわかる」
「あっ……」
 雨の跳ねていた指先で、キサラは己の顔を隠す。濡れてますます白んだ指の隙間から、薄紅色が見え隠れしていた。
「――ご存知、でしたか」
 何を恥じる必要があるのか、セトにはわからないが、白い娘の頬は彼女に不釣りあいな色をともした。咲き初めの水連のような色に、そんな顔もできるのか、と思う。
 もっとよく見てみたい。
 ふっと浮かんだ思いに操られ、細い腕をつかんだ。手のひらにひんやりとした感触が伝わる。容色もあいまって、水の精のようだ。強くつかめば崩れてしまいそうな腕をよけたあとに残っていたキサラの顔は、薄紅どころの騒ぎではなかった。
「セト……様っ!?」
 物言わぬ瞳を大きく見開いて、キサラは大気を震わせる。そのか細い声に、ようやくセトは己が何をしているのか悟った。罪人の扱いをしているとはいえ、相手は年頃の娘。そのうえキサラは、各地を放浪してまともな人づきあいもしていないのだろう。男に触れられる免疫を持っているとは思えない。直視されるのが耐えきれないとばかりに顔をそむけるキサラの耳は、まっ赤に染まっていた。
「いや、そのっ……」
 今さら放すこともできずに、セトは言葉に詰まる。表情には出していないと思っていたのだが、口の端がひく、と痙攣した。自分が思う以上に、動揺しているらしい。
「濡れているな」
 必要以上に低い声を出して、キサラに確認する。これならば腕をつかんだのは問題ないだろう。自然に見えるよう手を放して腕を組む。心臓が常よりも、少し早く動いているような気がした。
「体調を崩してもらっては困る。ついてこい。執務室に乾いた布がいくつかあったはずだ」
「あ……! は、はい」
 セトの動揺を知ってか知らずか、キサラは赤面したままこくりとうなずく。
「セト様は、お優しいのですね」
 放された腕をもう一方の手でそっと包み、キサラはかすかに微笑んだ。紅潮した頬が笑みを美しく彩っている。暗い雨に閉ざされた中、キサラのかんばせだけが輝いて見えるようだった。
「……そうでもない」
 ぶっきらぼうに呟いて、セトはきびすを返した。ついてくるのはわかりきっているから、後ろも見ずに速足で歩きだす。回廊に高く靴音が響いた。速く――速く歩かなければならないと思う。伝染したかのようなこの頬の火照りが、消え失せてしまうように速く。
 降り続ける雨はやむことを知らずに、砂漠に水を与え続ける。ペタペタとついてくる足音を聞きながら、セトは明日から牢から出したキサラをどうするべきかと真剣に悩んでいた。頬の紅は、消えそうにない。
 追いついたキサラがセトの赤面に気がつくまで、あと、十歩。

2010.07.09up