「……っと、危ない」
頭上から降ってきたのは男谷さんの吐息。背中から伝わるのは意外にもがっしりとした胸で、嫌悪感よりも安心感のほうが先にくる。
「……あっ」
抱かれ慣れていない、というか生まれてこの方、男にこの体を抱かせたことなんてたぶんない。そんなあたしはすっぽりと収まってしまった自分の身をどう扱っていいのか分からず、思わず硬直してしまう。
どんどん熱くなっていく頬とは反対に、頭のなかは意外にも冷静で、状況整理をしていた。今は外出訓練の途中。歩道を歩いていたら、いきなり足を取られて転びそうになった。きっとハイヒールの踵がどっかに引っかかったんだ。実用性というものに刃向かうことを命題にしているかのようなこの履物は、全体重を預けるにはあまりにも心もとない。ご丁寧にもその不安を実現させてくれたわけだ。そのせいであたしは、体重の約半分を男谷さんに預ける羽目になっている。
「……っ。あ、のっ」
「なんです?」
あたしを抱きとめた腕は、そのままあたしの肩を抱擁する。なれなれしい学者野郎の声が、耳のすぐそばでささやかれる。
「自分で! 立てるから! だからっ!」
「離せっていうんですか? ……もったいないな」
残念そうな言葉を聞き間違いだと信じたくて、ゆっくり首を回す。いつものように浮かべている冗談みたいな笑顔は、冗談を言っているようには見えなかった。
「せっかく万里子さんが僕の腕のなかにいるのに。僕としては、このまま抱えあげて車に運んで行ってもかまわないんですが」
「それやったらあんた、明日の太陽は拝めないと思ったほうがいいわ」
「ふふ……わかってますよ」
喉の奥で笑って、男谷さんは身体を離していく。名残惜しそうに指先が肩に残っていたが、睨みつけるとそれも離れていった。
「ったく、油断も隙もない……」
「なにか言いましたか?」
「いーえ! 別に?」
男谷さんは数歩後ずさって、あたしの足元を見つめる。考えごとをしているときよくやるように、顎を触りながら口を開いた。
「王女の護衛を考えると、やっぱり、ヒールは低いほうがいいでしょうね」
「あったりまえよ! そんなの履く前からわかってたわ。そもそも、どうしてこんな靴選んだわけ?」
「君に似あうと思ったんだけどね」
「どうだっていいわよそんなこと」
ふん、と男谷さんから視線を外すと、くすくす忍び笑いがもれてきた。
「じゃあ今度は一緒に靴を買いに行きましょうか。僕が選んだらまた高いヒールにしてしまうかもしれない」
「……あんた、もしかして最初からこれが狙いで?」
「さぁ?」
男谷さんくちびるをきれいに三日月の形にして、わざとらしく小首をかしげる。反論するのもバカらしくて、あたしは深いため息をついた。
「……そーゆー笑い方、あの馬鹿みたい」
「馬鹿、とは?」
「いんこよ、いんこ。決まってるでしょ!」
カッツンカッツン踵を鳴らして、あたしは歩きはじめる。きれいな音が出るのはいいけど、できることならこの音は、後ろの陰険学者で鳴らしたいものだ。
ふりむけば、男谷さんはまだニヤニヤ笑っている。
「まいったなぁ……。刑事さんはカンが鋭いのやら、鈍いのやら」
「なんか言った?」
「いいえ、別に?」
了