086:初めてのきもち/七つの大罪・バンエレ 「へんなひと」 泉の聖女はつぶやいた。 澄んだ月がぽっかりと浮かぶ、良い夜だった。 爪先だけ梢におろして、エレインは天上を臨む。昼間気にしていた暗雲は空の向こうへ去ってくれたらしい。森を包む夜空は清く、銀砂を散らしたように星がまたたいていた。 頬をなでる風は昼より冷たいけれど、絹布のように柔らかい。妖精王の森、そのもっとも高い木の梢だというのに、エレインの髪をわずかに揺らすだけだ。きっと、地上ではほとんど凪いでいるのだろう。 眼下には森のほぼ全容が広がっている。さやかな月光を浴びて森は金に光っているようにも見えた。けれど、光の雫に濡れた葉の陰は黒々と夜闇を濃くしている。人間の目では、木々の葉に隠れているものは見えないだろうが、泉の聖女たるエレインは別だ。彼女が望めば、森は多くのことを教えてくれる。だが森に聞かずとも、わかることは多い。 エレインはそっと目を閉じた。 たとえばこの時間、多くの獣たちは寝息をたてている。だが、日が沈んでから目を覚ます者たちもたくさんいることをエレインは知っていた。 彼らにとって、夜は休息の時間ではない。今晩の食事を探して、油断なく目を配っているだろう。耳をすませば、彼らの足音はおろか、息づかいも鼓動の音だって聞こえる。 人間たちは夜を静寂が支配する時間だと思っているようだが、とんだ間違いだ。エレインの耳には、昼同様に生きているものたちのざわめきが伝わってくる。 朝になれば夜の生きものたちは眠りにつき、昼の生きものたちのざわめきが聞こえ始めるだろう。夜も昼も、森の住人たちは生き生きと暮らしている。何百年と変わりなく続いてきた風景だ。きっと、これからも変わりなく続いていくのだろう。 生まれ育ったこの森に代わる場所はないけれど、退屈なことだってことも変わりはしない。 おなじみの音に身をゆだねて、エレインはゆっくりと目を開いた。やはりおなじみの風景からつっと視線を落として、エレインはため息をつくように笑う。 「この森も、へんなひとを入れちゃったものね」 見おろす先には屈強な体の青年。広げた四肢は太く、のびざかりの木を思わせる。若木は枝葉を天にのばし、根を地へのばすのだが、青年の四肢は地上の四方へ投げ出されていた。それもそのはず、彼は眠ってしまっているのだ。あんぐりとあけた口から涎をたらした寝顔は、この世に憂うことなどなにひとつないと言わんばかり。 (なんだかまるで、夜空を抱いて眠っているみたい) ふわりと、音なく浮かんでエレインは青年の隣に腰をおろした。 彼が森の住人であれば、エレインとて気にとめなかったろう。だが、彼は人間――それも森の命である「生命の泉」の杯を奪いにきた人間だった。 顔つきを一言で表すのなら、野粗。口元からのぞく鋭い犬歯は獣めいているし、今は目蓋で見えない瞳も、起きていたときは爛々と輝いていた。 特に手入れをしていないだろう白い髪も、触れてみると水気も艶も感じなかった。どうやらだいぶもつれているようで、梳くとなれば青年は悲鳴をあげなければならなくなるだろう。「いっ〜〜〜〜てぇ♪」と叫びながら、それでもどこか楽しげに笑う青年を想像して、エレインはくすくすしのび笑った。 彼女の意地悪な想像も知らず、青年は広い胸を気持ちよさそうに上下させている。夢見はさぞかし良いに違いない。 眠る青年――バンの様子から、暴力と罵声にまみれた半生を推測するのは至難の技だろう。蔑まれ、侮られ、求めたものはなに一つ与えられなかった。生まれた地を離れ、放浪のあげくのごろつき稼業。 エレインからしてみれば、目を覆いたくなるような生い立ちだった。人間の醜さは重々承知しているが、実例をまざまざと見せつけられるのはまた別だ。世の中に絶望してもおかしくないというのに、バンは不老不死の杯を求めた。 長く生きれば、それだけ良いことが起こるかもしれないから―― そんな理由で。 もっともエレインにとっては、どんな理由であろうとも、杯を奪いにくる人間は、等しく追い返すのみ。杯を得られなかった彼らがどうなろうとも、知ったことではなかった。彼らとて、杯をなくしたこの森が滅んでしまうと知っても、杯を奪おうとしたのだから。 森の拒みものりこえて、杯に接近した人間たちは少なくない。エレインはいつも、杯がなくなれば森がどうなるかを訴えた。だが、不老不死の杯を目の前にして、そんな言葉に耳を貸す人間はいない。なりふりかまわなくなるか、聖女を騙して杯を手に入れようとするかのどちらかだ。 気に入ったエールが飲めなくなる、なんて理由で杯を諦めた人間はバンが初めてだった。 杯を諦めてなお森に留まったのも、また。 「こんなにへんなひと、初めて会ったわ」 しみじみとエレインは呟く。森がバンの性格を知って、こうなることを見越していたとしても、それならば最初から拒んでおけば良かったのだ。 「嫌いってわけじゃ、ないんだけど……」 起きそうにないバンの頭をそっとなでる。白髪に色艶はないけれど、月光を受けてきらきら輝いていた。やっぱり明日、櫛を出してきて梳いてやろう。痛がるだろうけど、梳き終わったらきっと喜んでくれると思う。かっこいいと褒めたら、嬉しがってくれるだろうか。 バンは物語に出てくる王子様や騎士様のような美男子ではないけれど、笑ったときにきゅっと細められる目は、どきどきするほどチャーミングだった。大好きなエールの話をしているときの目は、火を閉じこめた宝石のよう。熱っぽく光って、エレインを夏の夜虫(よるむし)にしてしまう。あの瞳で見つめられたら、心から捕らえられてしまいそう。 杯ではなくて、唇を奪いたいと告げられたら――? 「あっ、あの、その、へんな意味じゃないのよ! そういう意味じゃなくて。ええーっと」 誰も聞いていないのに、エレインは首をふりなが言い訳を始める。 「その、ほら。なんにも持って帰れないっていうのもかわいそうかなー? って。ちょっとのお土産くらい持たせてあげてもいいと思うの。バンも、悪いことしたわけじゃないんだし。蜂蜜とか、果物とか、森には美味しいものいっぱいあるし」 言いながら思い浮かぶのは、物語の中の貴公子が姫君にするように、バンがエレインを両腕で抱きあげて森を背にする光景だった。もちろん礼儀として、抱きあげる前に贈る手への接吻も忘れない。 「そそそ、そっ、そんなことするわけないでしょー!?」 響いた叫びに驚いたのか、近くの木から鳥が飛びたっていく。突然の羽音に、エレインは大声を出したのも忘れてびくりと肩をすくませた。 バンは、と見れば幸せそうな寝顔は変わらない。こころなしか、垂れている涎の量が増えているような気さえする。 「ほんと、調子狂わされっぱなしだわ!」 再びため息をついて、エレインは立ちあがった。 赤くなった顔を横にふって、体が浮かせる。裾が揺れるわずかな音だけ残して、泉の聖女は梢にもどった。月は先程とほとんど位置を変えずに、森を見守っている。 熱さをごまかすために両手を頬にあてるが、ちっともおさまってくれなかった。風があれば少しは冷えもしようが、この凪ではそれも望めない。意味もなく真上を望んだら、星はいつもと同じ場所で静かに光っていた。変わらない夜空の地図に、エレインは小さくため息をつく。 「いちばんへんなのは、私かもしれないなぁ……」 ぽつんと呟いた言葉は、月と星だけが聞いていた。 2013.07.28up |