092:いつか来るその日を

 目の前の女性にはいつだって自分を見ていてほしい。
 と、男谷マモルは思っている。
 目の前の女性、とは、髪をゆるやかにカールさせて、ネイビーのワンピースに腕を通した千里万里子のこと。薄化粧したかんばせを少しうつむけて視線を落とす彼女からは、普段のお転婆っぷりは想像しがたい。
 同様に、ピカピカの革靴をはき、ツィードのジャケットを着こなしている男谷マモルの普段の姿も、正解を想像することは難しいだろう。
 陰険学者と泥棒役者が同一人物であることをはっきりと知るのは、今のところ天地にただ一人。
 だから万里子が七色いんこの様子を見たいと、再び言いだしたのも道理と言える。
 もちあがった顔に光る瞳と対面して、男谷はちょっと鼻白んだ。
「けど、この前そう言って喫茶店に行った時は、いんこはいなかったじゃないか」
「だからこそ、です。あたしが見てない間にどんな悪さをしてるもんだかわからないじゃないですか」
「また空ぶりに終わるだけだと僕は思うけどね」
 腕を組んで首をふり、男谷は賛成できないと伝える。
 とんとん、と男谷マモルの指が自分の二の腕を叩いた。軽い苛立ちを表す演技。万里子に好意を寄せていることを隠していない彼がとる動作としては、妥当なものだ。
 だが問題は、ポーズなのが半分だったこと。演技半分、無意識半分。叩こうかどうかと迷い始めた瞬間に、もう指が動きだしていた。演技者としては許されないミス。自分の動作を制御できない役者なんて、舞台にあがる資格もない。
 ――なぜだ?
 叩いてしまった理由を素早く推測する。無意識に苛立ちの演技をしたということは、苛立ちは演技でなかったのだろう。なにに苛立っているのか。
 七色いんこが喫茶店にいないことはわかりきっている。また、千里万里子がそれを知りえないこともわかっている。
 故に、本当は目の前にいる泥棒役者のことを彼女が気にかけるのは、なんら不思議な話ではない。それに、うぬぼれて良いのならば――彼女がいんこに会いたいと思うのは当然だろう。もう三ヶ月近くいんこの顔を見ていないのだ。
 その不満を訴えるかのように、万里子は口を尖らせた。
「そんなの! 行ってみなくちゃわかりませんわ」
「そりゃあそうなんでしょうけど……」
 男谷の語尾は静かに濁る。
 婚約者に立候補した彼としては、万里子が他の男を気にするのは気にくわない。気にかける男が本当は自分だとしても、苛立っていると伝えなければならないし、外出へは消極的な姿勢しか示さない。
「この前行った時に、店の人たちも言ってたじゃありませんか。いんこはここのところ来ていないって。地方か外国にでも行ってるんじゃないですか? 行ったところで彼がいるとは思えないし、それに……」
「それに?」
「せっかく僕と二人きりなんだから、他の男のことなんて口にしないでほしいな」
「なっ……!」
 なにを言ってやがりますかいこのトンチキ野郎!
 と、続きそうな口に人差し指を置いてふさぐ。噛みぐせのひどい小型犬みたいな顔をして怒っていたけれど、ちゃんとレディーらしく、指に歯形をつけるのはやめてくれた。
 もし噛まれたとしても、それはそれでかわいいと思うだろう。男谷マモルという立場では、七色いんこのように彼女に対する好意を隠さなくていい。
 こわい顔をして睨んでくる目を嫌味なくらいたっぷり盛りつけた微笑みでいなす。
 万里子の眼球に男谷が映っていることに満足するが、心に浮かべているのはここにいない役者の顔だろう。彼女の視線は男谷の顔を素通りするが、役者のマスクの下は見通せない。だから、目の前の男を見てくれないのだろうか。

(ああ、なんだ)

 本当に見てほしいのは、彼らの仮面をかぶった僕なのだ。
 陰険学者でもなく、泥棒役者でもなく、ただひたすらに素の僕という人間。
 それを、彼女に瞳に映してほしい。
 ただそれだけが、不機嫌の理由だった。

「男谷さんって、けっこー独占欲強いんですね」
 尖った口がかわいいことを言うものだから、僕は男谷の仮面をかなぐり捨ててしまいたくなった。皮膚にはりついたそれを、ちょっとだけめくって、声をだしてみる。
「そうでしょうね。きっと、あなたに関しては、特に」
 茶目っ気をだしてウィンクを贈ると、ゲロを吐くジェスチャーを返されてしまった。
「そーゆーキザったらしいとこ、いんこみたいで大っきらい」
「僕は万里子さんのそういうズバズバものを言うところ、結構好きですよ」
「うわぁ……」
 二回目の嘔吐のジェスチャーにもめげず、男谷の仮面は微笑をはりつける。一瞬だけ開けた隙間はすぐに閉じて、僕は僕を隠し通す。
 彼女が役者の仮面をはがすのが先か、それとも役者が彼女に素顔をさらすのが先か。
 いつか暴かれた日、彼女の眼はきっと、ぴたりと僕を見すえるだろう。
 いつか来るその日を恐れながら、焦がれながら、僕は仮面の下で静かに笑った。

2012.01.30up