095:透明な暗い道へ

 重なったことが幻想だというなら、自分が胸に抱いた感情もまた嘘だというのか。
 問いかける相手はもういない。
 (きっと高潔が彼を狂わせたのだ)



 永遠に砥ぎ続ける刀のような男を知っている。堕することなく、濁ることなく、透明な鋭さを極め続ける男を知っている。
 彼がいつも女柄の小袖と退廃を纏っていたのを知っていた。彼が派手好みの柄――蝶やら牡丹やら――を好んでいたのも知っていた。彼がいつも巻煙草よりもキセルを好んでくゆらしていたのを知っていた。
 そして。
 彼が自滅へ至るであろうことも、知っていた。


 きっと高潔が彼を狂わせたのだ。師が没した後もそしらぬ顔で刻み続ける心臓の鼓動が、従属の屈辱を忘れて虚栄に奢る民衆が、人間の生き死になど無関係に巡る月と太陽が、高潔な彼を苦しめたのだ。ただ、師に準ずるという純粋な――あまりにも純粋すぎた理想を抱いた彼は、曲がることができなかったのだ。
 師のいないこの世は、彼にとって受け入れ難い空言なのかもしれない。嘘夢があまりに長いから、早く目覚めようとしてあがく。
 破滅願望なんて安っぽいものではない。彼は師の背を必死に追っているだけだ。そこにあるのは、夏の日に蝶を追いかけた少年が宿していた熱と同じもの。或いは異国の伝説のように、臘の翼で舞い上がった男の太陽への憧れ。追いかけるものが眩しくて、ほかには何も見えなくなる。
 真っ白い、透明な、美しい、理想。



 ――しかし、
       それは嘘だ。



 透明な理想がどれだけ危険なのか、それを知らぬほど(或いは知れぬほど)愚かな男ではない。彼は自らが歩む道が奈落へ続くことを知っている。破滅への手順を丁寧に踏み続けていることを知っている。
 知りながら、笑みながら、両の手にのった全てを惜し気もなくこぼしながら、彼は軽やかに歩を進める。
 歩みを止められないのは、彼が何ものにも執着していないから。
 ――おそらく、俺にさえ。


 (結局のところ、彼の執着は師に集約されるのだ)

2007.08.01up
2011.04.11改稿後再up