きっかけはおそらく、名も知らぬ顔も知らぬ末端のミスだったのだろう。一つ一つであればほんの些細な事として済ませられるミス。ただ、それが十、二十と重なれば話は別だ。噛み違った歯車は連鎖的にトラブルを起こし、日常業務に支障をきたすまでになる。組織が大きければ大きいほど、その噛み違いは致命的だ。トップに立つ人間までも駆り出されることになる。
何故そんなミスが重なってしまったのか? 答えは明白。ほんの偶然。オカルティズムを好む人間ならば、気がどうのだの星の巡りだのというかもしれないが、オカルティズムを嫌う彼は、即座にそれを切り捨てるだろう。有機的なまでに成長した大企業、KCの軽い風邪のようなものだ。
「磯野、これで最後だな」
書類の決裁を終え、若きKC総帥――海馬瀬人は己が秘書に念を押した。他人に弱味を見せることを恥とする彼も、痩躯にどっぷりと溜まった疲労は隠せないのだろう。もともと白い顔は蒼白を示し、目の下はベンジンで拭っても消えそうにないクマでふちどられている。対する磯野の状況も惨憺たるものだったが、主人ほどではない。なにしろ海馬はこの三日間一睡もしていなかった。
KCの風邪を治すのに最も奮闘したのは、他の誰でもない、彼だった。副社長である彼の弟も勿論よく働いていたのだが、さすがにまだ子供だ。徹夜をさせることは瀬人も磯野も厳しく止めていた。
それはともかく、総帥自らの活躍によって、騒然としていたKCは通常に戻りつつある。彼は歪んでいたネクタイをはずして、ため息とともに吐き捨てた。
「この分ならもうオレがいなくともどうにかなるだろう。オレは寝る。さすがに体が持たん」
「は」
部下の簡潔な答えに口の端をあげて、満足したかと問うてみる。この秘書は何時間も前から瀬人に休息を勧めたがっていたようだが、それではKCの回復が遅れる。瀬人の健康状態と会社の健康状態の両方を心配しなければならないという、悩みを抱えていたらしいが、これで安心するだろう。
それに実際、己の肉体が苦しいほど睡眠を欲しているのはわかる。思考は鈍っているし、足元がおぼつかなくなる時が時々あった。特に失態を演じてはいないが、このままの状態で、その保障はない。
「何かあったら遠慮なく起こしに来い。オレが、つまらん配慮で問題への対処を遅らすような人間を雇う主義ではないことを覚えておくんだな」
こんな時、凡骨のような体力バカならヘともしないのだろうなと思いつつ、仮眠室へと向かう。歩きながら、急速に目の前が霞んでいくのを感じた。仕事がひと段落して、気が緩んだのだろう。もたれかかるようにして仮眠室の扉を開けた。
「何故、いる」
遮光カーテンのかかった仮眠室の中は用途にふさわしく、昼でも薄暗い。その中央に寝具が置かれているわけだが、問題はその上だ。
長い、白い髪。滑らかな肌。しなやかな肢体。昼寝をする猫のように四肢を折りたたんで、安らかに寝息をたてている。霞んだ視界の中、彼女だけ、輝いているように見える。
その時彼が感じた思いを、なんと形容すればいいのか。鈍った思考は容易に答えを出してくれない。ただ、彼女を呼ぶ声だけが乾いた唇からこぼれてゆく。
「キサラ……」
起こそうかとも思ったが、彼女が起きるまで、自分が起きていられるか不安だった。何故こんなところで寝ているのか? どうしてここにいるのか? 疑問に思うことすらおっくうだ。睡魔と呼ぶにはあまりにあくどい疲労が、瀬人の思考を限りなくシンプルにしてゆく。
自分は眠りたい。
↓
寝台にはキサラがいる。
↓
しかし、スペースはある。
↓
ならば、寝てしまえ。
背広の上着を脱いで、キサラの隣に倒れこむ。スプリングがきいてかなり揺れたはずだが、先に眠っていた彼女にはなんの影響ももたらさなかったらしい。寝息が乱れた様子はない。ただ、髪が一房、しゃらりと音を立てて瀬人の眼前にこぼれ落ちた。
絹糸のような、金属のような、不思議な光沢をもったそれ。どこか、彼の愛するしもべの体躯の色にも似ている。おろされた目蓋で隠されてはいるものの、彼女の瞳もしもべと――そして彼と――同じ色をしていた。
(猫では、ないな)
眠りに落ちゆく中で、先ほど感じた印象を修正する。猫のように温かい動物ではなく、もっと冷やかな動物だ。生半可な気持ちでは触れることさえためらわれるような、凛とした動物。それこそ、彼のしもべのような――
(白龍)
意識がとんでゆく。眠りという優しい闇に囚われてゆく。墜落してゆくような浮遊感。覚醒していた時間があまりに長かったからだろうか。普段眠るときにはなにも感じないそれに、瀬人は抗いがたい恐怖を感じた。
「キ…サラ……」
動かない手を伸ばし、溺れる者が藁をつかむ必死さで、彼女の髪に触れる。光沢を裏切らない、なめらかな触感。冷たい命綱。体を支えるとしたら、あまりに細すぎるのに、彼は安堵の息をもらした。呼吸が、起きているためのものから、眠りに就くためのものに変わってゆく。
ゆっくり、ゆっくりと。彼女の姿を見られなくなるのを惜しむかのように緩慢なスピードで、彼の目蓋がおりていった。目蓋の裏にある完璧な闇が彼の視界を支配する刹那、ようやく、瀬人は彼女を見たときに感じた感情を表する言葉を思い出した。
彼女を形容するには、簡素極まりない言葉。けれど同時に、それを省いて彼女を形容するには困難極まりない。
もはや、己の鼓膜を揺らしたかどうかさえもわからぬほどの声で、彼はその言葉を呟いた。
「うつくしい」
了