鉄なぞ喰ったことがないというのに、口腔を満たした液体は確かに錆びた鉄の味がした。
肺腑から昇ってきたこれを、気道は受けつけずに大きな気泡をくりだす。
幾度も刃を受け、しかし闘志だけは失わずに瞳を燃やしていた彼も、己が身の限界には屈するらしい。
ささやかではあるが明らかな内臓の反乱に、青年は耐えきれず顔を歪ませた。
結ばれていた唇が笑いとも怒りともとれる形に変わり、端から幾筋も生温い血を零す。
赤は顎から流れ落ち、彼の引き締まった胸襟へと滴っていく。
だがそれは、青年の胸の新たな彩りとはなりえなかった。
そこは既に、裂けた肉の紅色と渇いた血の臙脂色とで華やかに塗布されていたのだから。
むしろ、これまで震えもせず立っていたことのほうこそ賞賛されるべきだ。
彼が赤を纏った部位は胸だけではない。
吐き零した口は無論のこと、返り血を浴びた両腕、許してしまった太刀を受け入れた胴、血と肉の海を渡った脚。
それらすべてが、暗く死んだ赤にとりつかれていた。
鍛えられ、引き締まった体の彼を遠目から見れば、赤銅の像に見えたかもしれない。
満身創痍、血と脂にまみれた剣を持つ彫像の題は、恐らく英雄の死。
呪いのような赤につかりながらも、毅然とした姿を崩さない彼は、抗い続けながらも、予言された悲運を避けられない半神半人を思わせる。
青年に与えられた運命の主題は、たった一つの単語で片づけられた。
――――復讐。
あまりに陳腐な、愚かな、無益な、人生のテーマ。
それを捨てされば、彼は幸福に生きることも可能だったろう。
友を得、妻を持ち、子を成し、単調な日々の中からささやかな喜びを見つけて、年月を送ってゆく。
死は安らかに彼を包みこみ、砂漠は彼の骨を優しく撫でるだろう。
しかし。しかしだ。
その幸福に、なんの意味がある。
少なくとも、彼はその幸福を選べなかった。
親を、友を、血族を、隣人を、殺された。
青年の村は彼一人を残して、全員が虐殺された。
今、青年が生きているのは、偶然の産物にすぎない。
その偶然を拠りどころにして、幸せをつかむことは、許せなかった。
それでは彼が憎む者たちと同じだ。
ただ、高い身分に生まれたからというだけで、ナイルの繁栄を享受する者たち。
王族、神官、貴族ども。
それはそのまま、彼の村を殺した者とイコールで結ばれる。
「だ、れが……っ!」
そんなものと同じになろうと思うだろう。
彼にとって、幸福に生きることは、仇と同じに堕することを意味した。
再度、血を吐く。
つばきを吐くように飛ばした血へどは、広大な砂漠の上に小さな赤黒い汚れを作った。
だが、黄塵がたちまちのうちに、元へ戻してゆく。
それを確認して、青年の闇を宿すのにさえ倦怠を感じている瞳が一瞬だけ細まった。
そのまま砂の曲線を辿って、地平線へ視線をやる。
青年が立つのは、ただ一人の男を待つため。
いや、男を待つと言うと語弊があるかもしれない。
彼が待っている者は男と呼ぶにはまだ幼すぎるし、青年はそいつが男であることに頓着していなかった。
条件さえ合えば、その人物が男であろうが女であろうが、どうでもいい。仮にそれが人外であったとしても、彼は同じように待ち続けたろう。
国を統べる、現人神。即ち王と呼ばれる者。
そして、それは同時に彼の親兄弟を殺した者。
正確を期すなら、青年の村を壊滅させたのは王の兵だったし、その命を下したのは墓に眠る先代だ。
だが、そんなことは些細な問題に過ぎない。
若き王が国を継いだというなら、その負債も継いでもらわなくてはなるまい。
王は民を守り、民は王を支える。
その逆だってあるはずだ。
王が民を虐げるなら、民は王を弑するだろう。
青年は至極まっとうに、その論理をなぞっているにすぎない。
「……ムウト」
万感の思いをこめ、青年は呟く。
もはや決意は固く、鉄のようにゆるがない。
どれだけ年月を費やすとしても、彼は復讐をやりとげようとするだろう。
青年を救える者は、きっとどこにもいやしない。
昏い双眸で地平の果てを見据えたまま、彼は三千年の闇へ、一歩踏み出した。
了