「……ねうろ?」
言葉を覚えたばかりの幼児が正誤を確認するために発音したかのように、私は彼の名を呼んだ。
孔雀色の冷たい瞳。物質を余すことなく観察し、無慈悲なまでに徹底的に分析する無機質な瞳。感情というものを探し出せない瞳。けれど、好奇心という生存にはどうでもいい欲望で光沢増す瞳。
この化物にとっては私の心情なんてどうでもよくて、私の体も好奇心を満たすためだけに使われたのだろう。化物に何かを求めちゃいけなかった。彼は与えない。奪うだけ。私を侵蝕し、蹂躙し、支配するだけなのだから。恋とか、愛とか、そんな幻想を夢見てはいけなかったのだ。
「ヤコ」
苛立った調子で私をなじる。気づけば彼は靴のままでシーツの上に降り立ち、腰を屈めて私の眼前に顔を寄せていた。だからそれ、不良みたいだってば。
「覚えの悪い貴様の頭のために、もう一度言ってやる。我が輩の温情だ。存分に感謝して受け取れ。その、役に立たん穴のような目から分泌する液体を止めろ。不愉快だ」
今度は、理解できた。驚いて頬に手をやると、そこには所謂、涙なるものが幾筋か生ぬるく伝っていた。体温と同じぐらいだったから、気づかなかったのだろう。ということは、
「あれ、私、泣いてる?」
理由がよくわからない。
化物が私をめちゃくちゃにすることは、わかっていて。
私が化物に逆らえないことは、わかっていて。
化物が私を求めるのなら、そこに幸せなんか、無いって、わかっていて。理解していて。了解していて。
わかっていた、はず。
なのに、
「あはは、なんか、おかしいね。なんでかな。私、なんで泣いてんだろねぇ、なんで泣いてるんだろうね。ネウロ、わかる? あ、こんな謎とも言えない謎を解くなんて、カロリーの無駄かな。ごめんごめん。なんか私、ちょっと混乱してるみたい。駄目だね。今日は午後からインタビューがあったんだっけ。大丈夫、ちょっと休んだらすぐに元に戻ると思うから。ネウロお望みの女子高生探偵の役柄はちゃんと演じるよ。心配なんて、あはは、もとからしちゃくれないだろうけど、しなくていから。だいじょうぶ。大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ大じょう夫、だい丈夫。だいじょうぶ大丈夫だいじょうぶだいじょうぶだいじょう」
「黙れ」
一喝で私の長ゼリフをさえぎって、化物は膝をついた。シーツがひっぱられて胸が見えそうになったから、再度自らをかき抱く。肩が少し寒い。
孔雀色の瞳を細めて、彼は私の顔をのぞきこんだ。虹彩にピーコックグリーンの私が映りこむ。泣いている、裸の私。
「我輩の前でくだらない嘘を吐くな。貴様が何を期待し何に失望したのか知らんが、生ぬるいべたべたした液体を眼窩から分泌しながら我輩に見え透いた嘘を吐くなど――」
そこで一度、舌打ちするように鋭く息を吐き出して、化物は沈黙した。音もなく顔を離して、私を見おろす。
「嘘を、吐くなど、」
言葉尻を繰り返す彼の姿は、然るべきセリフを忘れた俳優のように見えた。膝をついているというのに、彼がちゃんとした姿勢をとると、私は彼を見上げざるをなくなる。逆光となった朝日が彼を縁取ってきらきら光っていた。化物のくせに。
化物は無造作に片手をあげた。いつもの折檻のように振り下ろすかのだと思って身をすくめると、そのまま動作が止まった。頬のあたりで、所在無げにさまよう黒の手袋は彼をどこか心細げに演出していた。