「あー、やっぱり降ってきちゃったか」 カラカラと音をたてて、日本料理桐雨の戸をあけたのは、グレイの背広を着た男だった。 小ぶりの雨音と共に入ってきた彼は、桐雨の背にいつものよろしくと気軽に声をかける。 「七夕は雨が降りやすいものだからな」 「それ、去年も聞いた気がする」 「そうだったか……?」 酒とつまみを用意する桐雨の手は慣れたものだ。それもそのはず、彼はこの店の主人をもう数十年務めている。慣れていないほうがおかしい。 日本――いや、世界を危機に陥れた番長デーから幾歳すぎたことだろう。少なくとも、その頃の政府関係者たちの多くは他界し、十代がほとんどだった番長たちはその関係者たちと同じくらいの年齢になっている。顔に刻んだ皺は年輪のごとく。彼らが送ってきた日常――彼らが必死で守り抜いた日常の長さを物語っていた。 男は店内の奥に目を止める。 そこには小さいけれど立派に飾りつけられた竹が頭を垂れていた。 お猪口を手に、秋山は目を細める。 「君のとこは今年も笹を出したんだね」 「ああ、毎年やっているだろう? こういうことは夜子がいつも気を配ってくれていてな」 「そっか。こういうのは常連さんも喜ぶだろうしね」 ふふ、と低く笑う男の顔に、常時腹筋をむきだしにしていた卑怯番長の姿を重ねる者はいないだろう。時は二人から若さを奪い、同時に年相応の落ち着きを与えていた。 「優のところでは出さなかったのか?」 ふと気になって尋ねてみれば、秋山はそっと目を伏せた。 聞いてはいけなかったかとしばし悔いたが、杯を空にして秋山は軽く言葉を放った。 「うちのとこさ、一番下の子がもう中学卒業するだろ? もう七夕って歳じゃないからね……」 ま、だから今日はこんなにのんびりできるわけだけど。 なんて、秋山は強がりを言う。 警視庁でも優秀な彼は、自分を取り繕う術にもたけている。お猪口を揺らしてゆるゆると酒をまわす姿は、平静なように見えて、けれどいつもとは違う。それに気がつくのは自分くらいなものだろう。 子供たちのために必死で生きてきた秋山だ。 成長は嬉しいに決まっているだろうが、自らの腕の中から飛び立ってゆく彼らを見るのは淋しくもあるのだろう。だからこんなところでくだを巻いている。 秋山はいつもそうだ。何かことがあると、なんでもないと自分に言い聞かせようとして、桐雨の店でじっと杯を見つめている。何度もそんな姿を見ていれば、桐雨だって秋山の気持ちがわかる。 「優」 奥からすこしいい酒を出して、秋山に見せてみる。 淋しそうなそぶりを見せまいと努力している彼は、少し不思議な顔をして見せた。 「雨だが、織姫と彦星は雲の上で再会しているだろう。私たちも二人を祝して呑まないか?」 「珍しいね、刀也がそんなこと言うなんてさ」 「私とて呑みたくなるときはある」 暖簾を下ろしてくると告げて、桐雨は戸のほうへ出て行った。 雨が降りやむ気配はない。酒を呑むにはあまりいい天気とはいえない。 それでも呑みたくなったのは、親友の淋しい横顔を見てしまったからだろう。そんな自分に少し苦笑いをして、桐雨は暖簾をたたんだ。 店内では秋山が、嬉しそうな頬笑みを浮かべて彼を待っていた。 |